ローマ 7章14~17節 わたしはの肉の人
2024年1月31日
(内容)
- わたしは律法が善いものであること、自分が肉の人であり、罪に売られていることを知っている。
(黙想)
- 14節。律法は善いものであることを知っていると語り、さらに自分は、肉の人であり、罪に売り渡されていると語る。罪に売り渡されているとは、言い換えると自分が罪の奴隷であるということ。
- これまで罪は律法を利用して、わたしを殺したとパウロは語ってきた。そのことが具体的に語られていく。まず自分は「肉の人」であるという。どういうことか。
- 8章でパウロは、「肉に従って歩む者は肉に属することを考え」「肉の思いは死であり」「肉の支配下にある者」という言葉を使っている。
- 肉の人とは、生まれながらの人であり、その特徴として、罪に傾く傾向を持つ。人間は心と肉体を持つ。わたしという人間は、心と肉体を持つ。わたしの「心」とわたしの「肉体」は罪の働きかけに負ける可能性が大きい。肉体があることによって生じる欲、心があることによって生じる欲があるからである。
- 生まれながらの人間の心は、自分中心、自分第一の心であり、名誉欲、権力欲、富への欲、自分を誇るなどの欲がある。生まれながらの人間の肉体は、肉の欲を起こす。聖書には「情欲」という表現がある。
- 人間は心と肉体を持つ。心と肉体は、罪が働きかける拠点であり、わたしが罪を犯すように働きかける。そして実際罪を犯してしまうので、わたしは罪の奴隷、罪に売り渡されているとパウロは書く。14節には、このような肉の人についての説明はない。
- 15節。15節は、gar(なぜなら)が用いられている。罪に売り渡されていることの理由が15節で語られる。わたしは自分のしていることがわからない。自分が願うことをしないで、憎むことを行っている。このようなわたしは、罪に売り渡されて罪の奴隷だと説明する。願うこととは律法に従うことであり、実際には律法に背いているのである。
- なぜ、自分がしたいことができず、したくないことをするのか。
- 16節。もし自分がしたくないことをしているなら、それは、律法が善いものであることを認めていることになる。パウロはまず律法は善いものであると結論する。律法はすべきことを教える。でもわたしはそれを行わない。私が律法の命じるところを行わないのは、律法の責任ではない。律法はなすべきよいことを命じるのであり、律法は善いものである。
- ではなぜ、わたしは律法の命じるところを行わないのか。
- 17節。今や、わたしが行っているのではなく、私のうちに住んでいる罪が行っているのである。これは罪を犯す責任はわたしにはないと言っているのではない。そうではなくて、わたしの意志を蹂躙する罪の力を語っている。わたしはしたいと思うのに、それをさせないようにわたしに罪を犯すように働きかけるのである。まさにわたしは罪に売り渡された罪の奴隷なのである。
- 罪の奴隷であることの深刻な事態が語られる。しかし6章で、キリスト者は、キリストに結ばれ、罪の奴隷状態から解放されていることが語られている。7章のこの段落は、あくまでも律法が善いものであることを伝えることがテーマである。その文脈の中で罪の邪悪性が具体的に語られている。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>肉の人は罪に売り渡された罪の奴隷である。
- <教え>肉の人は、罪の力に勝てず、律法を実行しようと思っても実行できない。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、罪の邪悪さをあらためて知りました。同時に、このことが余り知らされていないことをも思います。霊的に深い事柄なので、語られることも少ないことを思います。だから何らかのかたちで、まず自分のために「パウロが語る福音」と題してまとめてみたいと思いました。課題とします。
☆与えられた導き
- パウロの福音をまとめる