ローマ 8章8節 肉の支配下にある人は神に喜ばれない

2024年7月12日

(内容)

  • 肉の支配下にある者は、神に喜ばれません。肉の思いは神に敵対し、神の律法に従っていないので、神を喜ばせることはできません。自分が神に喜ばれることを願うキリスト者であるのか否か、問うことは必要です。

(黙想)

  • 「肉の支配下」と訳されているが、文字通りには「肉にある」。新共同訳聖書では、「キリストにある」という言葉を「キリストに結ばれている」と訳している。要は、人の有り様、存在の仕方を語る言葉である。パウロによれば、人は「肉にある」か「キリストにある」か、いずれかである。
    「肉にある」人とは、生まれつきの人間を意味している。育つ過程で色々なことを感じ、学び、経験する。それらに基づき物事を考える。理想を持ち、道徳的に優れた生き方をしている人もいるし、快楽追求のみの生き方をする人もいる。
  • 「肉にある人」は、別な言い方をすれば、キリスト者でない人。つまり聖書の神を信じないし、聖書の言葉、神の言葉を聞かないで生きる人である。自分の思い、自分の欲するところに従って生きる人である。その考えることはこの世のことである。死を越える永遠を考えることはない。永遠を考え、この世の生き方を考えることはしない。
  • この人たちは「神に喜ばれるはずがありません」。ギリシャ語は「神を喜ばせることができない」。肉にある人の特徴はこの世のことしか考えないことにある。結果的に神に敵対し、神の律法に従わないので、神を喜ばせることはできない。
  • でもこの人々は神に喜ばれることについて関心をもたない。自分を喜ばすことに関心が集中している。この人たちに向かって、「あなたがたは神を喜ばせることができません」と言っても、「なにそれ」という反応が返ってくるにちがいない。
  • パウロはローマのキリスト者に語っている。キリスト者は神に喜ばれること、神を喜ばせることに関心を持つべきとパウロは考えている。神が与える救いを感謝をもって受け、救われた者として生きる、そのことは神に喜ばれることであり、神を喜ばせることである。もしキリスト者でありながら、神に喜ばれることに関心を持たないなら、自分の中に「肉にある」面が残っていることに気づくべきだろう。神が用意された救いが分かっていない面がある。
  • 自分が神に喜ばれること、神を喜ばせることにどれほど関心を持っているのか、自己吟味をすることが大切だ。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>神に喜ばれる歩みをする。
  • <勧め>神の喜ばれることを自分はどのように考えているのか、明確にすること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日はあなたを喜ばせること、あなたに喜ばれることを大切にすることを教えられ感謝です。「あなたに喜ばれる」「あなたを喜ばせる」という表現は律法主義的な響きを感じます。あなたに喜ばれる生き方をするという意識は私には少ないです。私の感覚では、信仰は神との交わりなので、神の御心を大切にして歩むというのが、私の自覚的な歩みです。この歩みはきっとあなたに喜んでもらえる歩みだと信じます。
  • 老いをどういう思いで生きるかを考えるとき、霊に従って歩む歩みがどれほどできているのかは気になります。課題だと思います。御国を目指す旅路を歩んでいることをどのように考え、具体化するかは課題です。今日はこの課題を与えられたことを感謝すると共に、この課題に取り組みます。導いてください。この課題に取り組むことを日記にメモしておきます。
☆与えられた導き
  • 御国を目指す旅路はどのようなものか、意識化する。