ローマ 6章6節(4)新しい人として生きる
2023年7月27日
(内容)
- 古い人が死んだのは、罪の奴隷にならないためである。
(黙想)
- 私たちの古い人が死んだとは、キリスト者はキリストに結ばれ、新しい人になったことを意味する。これは必ずしも実感できることではない。でも礼拝を大切にする、聖書を読む、祈る、神の御心に従おうとするなど、新しい人になっていることを示唆することはいくつもある。新しい人に生まれ変わっていると信じて生きることが大切である。
- 古い自分が死んだのは、罪に支配されたからだが滅びるためである。この「滅びる」は「無力化される」と訳した方がよい。
- 私たちは「からだ」をもつ。心と肉体をもつ。このために、色々な欲が生じ、私たちを罪へと誘う。あるいは色々な恐れが生じ、恐れのために歩みが曲げられることもある。私たちはこの欲を自制するが、時には負けるし、進んで身を委ねることもある。恐れのために、それを回避すべくしてはならないことをすることもある。かくして私たちは罪を犯す。しかしこの欲や恐れは、無力化された。私たちは打ち勝つことができるようになった。言い換えると古い自分が死に、新しい自分が生きるようになり、神の御心に生きていくとき、そのように生きることができる。
- そこで自分がキリスト者として生きるか否かの自覚が問われる。人が罪を犯すのは、時にそこに何らかの喜び、満足、楽しみ、心地よさなどがあることもある。恐れを避けて安心することもある。
- そこで私たちは、罪に身を委ねることがある。自ら欲して罪を犯す。してはいけないと分かっていても、罪を犯してしまう。しかし私たちの古い人は死んだ。新しい人として私たちは生きようとする。その時、神の御心に従いたいと願い、罪に身を委ねることを拒むのである。自分は何者として生きるのか、はっきりさせることが大切となる。キリスト者として生きるのか、罪を犯す者として生きるのか。
- 私たちは新しい人となった。それゆえ、神の助け、聖霊の助けを求め、罪の誘いを拒むなら、拒むことができる。こうしてひとつずつ、私たちはきよめられていく。こうして罪に身を委ねるという心の汚れを少しずつはがしていくのである。
- その結果として、罪の奴隷にならなくなる。罪の奴隷とは何か。同じ罪を繰り返す人である。罪を犯してもあらためないのである。罪に気づこうとしない人である。神の御心に従いたいと考えても、従うことのできない人である。神がイエス・キリストを通して与える救いは、私たちを罪の奴隷から解放する。私たちを罪から解放する。
- 日々の生活の中で、何かが起きると、私たちの心に色々な思いが湧いてくる。そして自分の心の汚れを思い知らされる。その時は、心の汚れをはがすよいチャンスである。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>洗礼を受け、キリストに結ばれた者は、古い自分が死んだと考え、それに基づいて生きること。新しい人に生まれ変わったと信じて、あるいは、新しい人に生まれ変わったと考えて生きる。
- <教え>肉体と心から、色々な欲が生じる。それらの欲に新しい人として対処できるようになったことを覚える。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、主イエスは「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と教えられました。何をどのように祈ったらよいのかと考えます。それは天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になるためであると主イエスは教えられました。
- 敵や迫害する者のために何をどのように祈るのか、という課題とそのものに対して、自分がどのような感情を持つのかという課題があると思います。恨みや憎しみを抱き続けてよいのか、どのような思い、感情を抱くようになれば良いのか、という課題です。課題となる一つは「許せないという思い」です。
- 今の私には赦せないという思いをもつ人はいません。しかしよい印象・感情を持てない人はいます。主イエスに似た者になることを願う者としてどのように祈ったらよいのか、どのような感情を持ったらよいのかと思案します。祈りつつあなたの導きを求めます。導いてください。
☆与えられた導き
- 導きを求めて祈る。