ローマ 7章7~13節 邪悪な罪

2024年1月25日

(内容)

  • 罪は邪悪なものであることが現れた。罪は律法という善いものを利用してわたしを殺すところに罪の邪悪性が現れた。

(黙想)

  • パウロは罪を擬人的に描く。律法がなければ罪は死んでいるが、掟が登場した時、罪は生き返り、わたしは死んだ。罪はわたしを殺した。
  • そして罪は罪としてその姿を現したという。律法という善いものを利用してわたしを殺すところに罪の邪悪性が現れた。罪は律法という善いものを利用し、わたしを欺き、わたしを殺した。パウロはなぜ、罪を擬人的に描くのか。
  • 罪へと誘惑する力が現実にあるからだと思う。人が誘惑に遭うとき、誘惑に負けることがある。誘惑は罪へと人を誘う強い力である。なぜ誘惑は強力なのか。誘惑が示す方向に行きたいという思いが人間の中にあるからである。つまり誘惑には魅力がある。でもそれは間違っているから従ってはいけない。かくして人間の心に葛藤が起きる。でも誘惑とは人を惑わすものであり、人はこれに負けてしまう。さらに誘惑は、人が自らつくりだすものではなく、人は誘惑に出会う。罪へと誘惑する力が人間の外から働く。罪へと人間を誘う力が明らかにある。だからパウロは罪を擬人化して描く。
  • 人間に働きかけ、罪へと誘う力が現実にある。その力を罪として擬人化することは罪という現実を洞察していることになる。罪を擬人化することは真理を突いている。
  • 罪は律法を利用し、律法に逆らうように人に働きかける。律法という聖なるもの、よきものを利用して人間に罪を犯させる。ここに罪の邪悪さが現れる。
  • キリスト者は罪の邪悪さを知り、罪と向き合い、対決することが大切となる。自分の力で罪に抵抗しようと思っても負けるだけ。なぜなら人は罪の支配下に置かれ、罪の奴隷だから。しかしキリスト者はキリストに結ばれ、罪から解放された者である。もはや罪の支配下にはいない。このことは6章で語られた。
  • キリスト者としては、罪の邪悪さを受けとめ、キリストに結ばれ、罪の支配下にはおらず、恵みの支配下にあることを肝に銘じることが大切である。
  • 罪が生き返ってわたしは死んだ。罪はわたしを殺した。これはわたしが、神の教えを実行できず、罪を犯すみじめな存在であることを意味している。キリストを信じる前は、罪を犯していても何も感じないで神なしに平気で生きていた。
  • キリストを信じ、神の教えに生きようとすると罪が生き返り、わたしは死んだ。わたしを殺した。神の教えに従えない自分、神の御心に従おうとしない頑なな自分を知る。それはみじめな自分、死んだ自分である。
  • しかし自分がキリストに結ばれていることを知るとき、自分がキリストと共に死に、キリストと共に復活し新しい命に生きることを知る。今や罪の支配下から解放され、恵みの支配下に移されていることを知る。罪の邪悪さを知り、聖霊の助けを得て罪と戦う者となる。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>罪は律法を利用してわたしを殺す邪悪なものである。罪は私に罪を犯させようと働きかける力である。
  • <勧め>キリストによる救い、キリストに結ばれていることを知ることが大切である。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、大切なことを学びました。私自身、罪の支配下にありましたが、恵みの支配下に移されたことを感謝しています。
  • 罪は掟が登場するや生き返り、わたしは死にました。罪はわたしを殺しました。この死んだ状態がどのようなものなのか、もう少し知りたいと思いました。聖書の中でどのように描かれているのか知りたいと思いました。パウロ書簡を読んでみたいと思います。
☆与えられた導き
  • パウロ書簡で霊的死がどのように描かれているのか調べる。