ローマ 6章6節(1) 生まれ変わり
2023年7月5日
(内容)
- キリストと結ばれた私について言えば、古い自分は死んだ。
(黙想)
ローマ 6:6
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
- 古い自分がキリストと共に十字架につけられたとある。パウロは言うまでもなく、人間の救いを語っている。罪からの救いを語っている。
- 3~5節まで、キリスト者はキリストに結ばれ、キリスト共に死に、キリストが死者の中から復活させられたように、キリスト者は新しい命に生きることが繰り返し語られてきた。言い換えると人間の救いは、人間の生まれ変わりを必要とすることが分かる。私たちも、キリストと共に死んで生きる、この死と復活を通して救われ、罪から解放される。
- それは言い換えると、人は教えによって、つまり教えに従っては救われないことを意味する。律法学者はファリサイ派の人たちは、律法に従い、自分の義を立て、自分は救われると考えた。人間の罪の解決は、律法に従うことによっては成し遂げられない。だからイエスが贖いのいけにえとなって十字架で死なれた。
- それゆえ、イエス・キリストを信じることによって救われると教会は教えてきた。キリスト者として実際に罪から解放されるのは、生まれ変わりを通してであり、このことが伝えられないと、イエス・キリストを信じて義とされることは確かであるが、罪の中にあることとなり、聖化は無理となる。人は教えを守って聖なる者となるのではなく、生まれ変わりによって聖なる者とされ、聖なる者として生きていく。そこに聖化が事実となっていく。
- キリストに結ばれることによって起きる生まれ変わりを説教しなければ、福音を宣べ伝えているとしても十分ではない。このことは強調しても協調しすぎることはない。
- 人は行いによって救われない。キリストを信じることによって義とされることが語られる。罪の赦しはよく語られる。しかしキリストに結ばれて生まれ変わること、生まれ変わりに生きないと、キリスト者の生き方を教えられてもそれに従えない自分を見いだしてしまう。罪深さを覚える。罪を犯しても赦しの恵みを受けることができるが、罪に勝つことができず、罪の中に留まりかねない。
- 古い人が死なない限り、古い人は残り続け、私たちは罪を犯し続けることとなる。
- イエス・キリストの犠牲は、私たちの罪に対する神の怒りから、私たちを救う。しかし罪を犯すように働きかける力、心の汚れからの救いは、生まれ変わることが必要である。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>私たちの古い自分は十字架につけられて死んだ。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。
- 今日の聖書を思いめぐらす中ではっとさせられました。人は自分の行いによって救われない、律法の行いによっては救われないことは説教でも語られ、イエス・キリストの贖いの犠牲によって救われることが語られます。
- 人が犯した罪に対する神の怒り、さばきからの救いは、イエス・キリストの贖いを信じれば得られることになります。しかし救いはそれだけではありません。罪を犯すように働きかける力と、私たちの心の汚れからの救いが必要です。これらは、イエス・キリストの贖いを信じるだけでは不十分です。私たちはイエス・キリストに結ばれ、キリストと共に死に、キリストと共に生きることが宣べ伝えることが必要となります。でも余り説教されません。
- その結果、罪に勝利して生きる信仰者の証しが生まれません。信仰に生きる祝福が伝えられません。ここに伝道が進展しない一つの理由があると思います。あらためて福音が余すところなく宣べ伝えられることを願います。あるいは救いとは何かを明確に示されることが大切と思います。
- 今、マルチン・ルターの生涯について語る書物を読んでいますが、ルターが以上の点についてどう考えていたのか、確認したいと思いました。
☆与えられた導き
- ルターの書物を調べる。