マタイ 5章7節 憐れみ深い人々
2023年7月4日
(内容)
- 憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける。
(黙想)
- 他者に対して憐れみ深くあることが勧められる。これは道徳的な、倫理的な教えではない。端的に言えば、我々は他者に対して憐れみ深い人間ではない。利己的で自己中心的な人間である。神の御心を大切にしようとする思いが少ない人間であり、神のように憐れみ深くありたいと願うことのないのが我々である。
- しかしイエス・キリストを信じた今、神の御心に歩みたいと願い、少しでも憐れみ深くありたいと願い、行動したいと思う者である。
- そもそも憐れみ深いとはどういうことなのか。聖書には、神の憐れみ深さが描かれている。
- マタイ18章21節以下にイエスの語ったたとえがある。これは弟子のペトロが主イエスに「兄弟がわたしに罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と尋ね、イエスは「七の七十倍までも赦しなさい」と答えられた。
- これに続けてイエスは、天の国のたとえを語られた。王から莫大な借金をしていた家来がいた。王が借金の清算をしようとした。この家来は、「待ってください。全部お貸しします」と王に頼んだ。到底返済できる額ではない。王は彼を憐れに思い、借金を帳消しにした。
- 赦された家来が、一人の仲間に会った。この仲間はこの家来にわずかだが借金をしていた。この家来は返済を迫るが、仲間は「待ってくれ、返すから」と返事をした。この家来は、彼を引っ張っていき、返済するまで彼を牢に入れた。
- このことを王に報告する者がいた。王には莫大な借金を赦してもらったのに、自分に対して少額の借金をしている人を赦さない家来。王は、この家来に、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と語る。そして帳消しにした借金を返済するように王は要求した。
- そして結論として、あなたがたの兄弟の一人を赦さないなら、天の父もあなたがたの罪を赦さないだろうと語る。私たちは罪を天の父なる神に赦されているのだから、兄弟が私に対して罪を犯し、赦しを求めるなら、いつでも赦しなさいとイエスはペトロに教えられた。
- 罪を赦す、それは憐れみの行為である。私たちは神の憐れみを受けているから他者に対して憐れみ深くあるべきである。キリスト者は、神の憐れみを受けているから、他者に対して憐れみ深くあるのである。
- マルコ6章30節以下では、イエスのもとに集まった群衆が飼い主のいない羊のような有様なのを見て、イエスは彼らを憐れみ、教えられたとある。
- マルコ5章19節では悪霊に取り憑かれた人からイエスが悪霊を追い出した時、追い出された人がイエスについて行きたいと語った。その時イエスは、「主があなたを憐れみ、あなたのしてくださったことを身内に人に知らせなさい」と語っている。
- 他者の弱さに共感し、手を差し伸べる態度を憐れむと言ってよいのではないか。その他者の弱さと自分は関係ないといって手を差し伸べることをしないこともある。現代は、地球上の至る所の情報が届き、弱さ、乏しさ、不条理な悪で苦しむ人など、手を差し伸べる相手が多いと言える。すべての人に手を差し伸べることは不可能である。
- 日々の生活をする者としては、身近な場面で憐れみ深くあるべきなら、行動しなければならない。キリスト者は何よりも罪を赦され、神の憐れみを受けていることを覚えることが大切である。憐れみの手を伸ばすことをためらうなら、自分が神の憐れみを受けていることを知っているかどうか、自問することも大切だ。
- 憐れみ深い人々は憐れみを受けるとの約束がある。神は私たちが憐れみ深い歩みをするのをご覧になり、私たちを顧みてくださる。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>他者に対して、憐れみ深い態度で接すること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、あなたから憐れみを受け、罪を赦された者として、私たちも他者の罪に対してそれを赦し、憐れみ深い態度で接することの大切さを教えられます。
- 他者を覚えて執り成しの祈りをすることも憐れみにつながることと思います。教会につながるとき、弱さを覚える人がおり、執り成しの祈りをしたいと思いますし、また祈りをしています。
- 今日は、ある姉妹のことを覚えしばらく祈り続けたいと思いました。導いてくださるようにお願いします。
☆与えられた導き
- ある姉妹のために執り成しの祈りをする。