ローマ 7:24 みじめな人は誰?
2024年2月20日
(内容)
- わたしは何とみじめな人間なのでしょう。誰がわたしを救ってくれるのでしょうか。このように叫ぶ「わたし」はどんな人なのか。
(黙想)
- このような叫びをするのは誰なのだろうか。このみじめな人は誰なのか、色々議論がなされている。
- 25節では、この人は「心では神の律法に仕えている」と語る。自分をみじめと語る人は、心で神の律法に仕える人である。この「自分はみじめな人間」と語る人が、どのようなキリスト者なのか、と色々議論されるが、それは文脈を考えていない議論と考える。
- 既にパウロは、キリスト者がどのような人かを語っている。パウロは、6章で次のように語る。
6:17~18
しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。
- キリスト者は義に仕えるとある。この義は、律法を行うことによって得る義ではない。キリスト者にとって義とは、イエス・キリストを信じることによって与えられる義である。義に仕えるとは、あくまでも信仰によって与えられる義に立つことを意味する。キリスト者は「心では神の律法に仕えている」とは言わないだろう。さらにキリスト者は罪から解放されている。それなら自分のことを「みじめな人間」とは言わないだろう。
6:16
知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです
ここでは神に従順に仕える奴隷とある。キリスト者は神に従順に仕える。では神に従順に仕えることと神の律法に仕えることとは同じなのか。パウロは7章の最初でこう語る。
7:4
ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。7:6
しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。
- ここには「律法に対して死んだ」、「律法から解放されて」いるとある。パウロからすれば、キリスト者は「心から神に律法に仕えている」人ではない。しかしキリスト者でない人が神の律法に仕えることはない。ではこのみじめな人は誰なのか。
- 大切なことは、パウロは7章7節以下で、律法について語っていることである。パウロは律法は聖なるものであり、善いものであると語る。「心では神の律法に仕えている人」とは、律法を行い義と認められようとする人のことである。
- パウロは、罪は律法を利用して人に罪を犯させると語ってきた。それゆえ、心から律法に仕え、律法を行いたいと思う人は、望む善を行えず、望まないことする。そんな自分が惨めだという告白が導かれる。
- パウロはあくまでも律法の話をしており、律法に仕える人はみじめな結果に陥ることを語る。キリスト者は律法に死に、律法から解放された人である。
(聖書の教え)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>罪は律法を利用して私たちに罪を犯させる。
- <教え>キリストによる救いは、私たちを罪から解放させ、律法から解放させることと知ること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、ロマ書の語るみじめな人が誰なのか、という議論から解放されて感謝です。この箇所を理解しようとあれこれ思いめぐらし考えてきました。でも今、ロイドジョンズ牧師のロマ書講解を読んで、聖書は何を語っているのか、文脈をしっかり把握することが大切であると教えられました。感謝です。
- 私一人の力では、ロマ書を理解できないので、さらに理解するために、ロイドジョンズ牧師の本から学びます。そしてパウロが語ことをきちんと理解したいので導いてください。
☆与えられた導き
- ロイドジョンズ牧師からさらに学ぶ