ローマ 3章19~20節 罪を自覚させる律法
2022年9月16日
(内容)
- 全世界の人は罪のために神の裁きを受ける者となっているとパウロは語る。これは1章18節から始まる部分の結論である。ユダヤ人も異邦人も皆、罪の下にあり(3:19)、神の裁きを受ける者となっている。
(黙想)
- 律法の語るところは、律法の下にいる人々に向けられている。3章2節でユダヤ人のすぐれた点は、神の言葉がゆだねられていることにあると書かれている。律法はモーセの律法と狭く理解することもできるが、神の言葉あるいは旧約聖書を指すと考えることもできる。神の民イスラエルは神の語る言葉によって生きるものとされた。神の掟に生きる者となった。
- そのユダヤ人も皆、罪を犯し、神の怒りを受ける者となっているとパウロは2章から語ってきた。神の言葉を与えられている者が神に従うことができなかったのなら、神を知らない異邦人が罪を犯し、神の怒りを受ける者となるのは当たり前だとパウロは語っているように見える。
- 20節では、律法を実行することによって神の前に義とされる者はいないのだから、異邦人が義とされないのは明らかであると語っているように見える。
- そして結論として、律法によっては罪の自覚しか生じないと語られる。1章の18節で、人間の不敬虔と不義に対して神は天から怒りを現されるとあった。そして異邦人もユダヤ人も皆罪の下にあることをパウロは論証した。このままでは人は皆、神の怒りを受けて滅びることになる。
- そして21節から、救いの出来事についてパウロは語っていく。
- 現代の世界は理性中心の世界であり、教会が、人間は神の前に罪を犯していると語っても耳を傾ける人は少ない。伝道は困難な時代である。しかしある人が教会に来て、礼拝に続けて出席し、説教に聞き続けるなら、自分の罪を認め、洗礼を受けるようになる可能性は大きい。だから教会は多くの人を教会の礼拝に誘う伝道をしている。キリスト者の家族でも、なかなか礼拝に来ない現実はある。
- 律法によっては罪の自覚しか生じない。律法は罪の自覚を生じさせる。これは大切なメッセージだ。律法を教えることによって、人は罪を知ることになる。律法を教えることは大切である。
- キリスト者の中で律法を守らなければいけないと考える人がいる。しかし律法を守る努力をしても、律法を守れないという結果になる。罪の自覚に至る。そこで律法は私たちをキリストのもとに導く養育係であると言われる(ガラテヤ3:24)。そして私たちは信仰によって義とされ、私たちはもはや、この養育係のもとにはいないとパウロは語る。この養育係のもとにはいないということは、律法から解放されていることを意味する。これまでとは違ったアプローチで律法を守ることになる。
- 罪とは何か。悪事を行うことか。何をもって罪と判断するのか。神の目に悪とされることを行うことである。十戒を参考にすれば、神に対する罪と人間に対する罪がある。
- 聖霊の導きを求めて律法を説き、罪の自覚へと導くのは、説教の役目である。そのことを意識した説教と作ってみたい。神の戒めを説く。その戒めには神のどんな思いが込められているのか。その戒めを行うのを妨げる人間の思いとは何か。それは罪である。なぜその戒めを守るのか、なぜ、その戒めを守ることができないのか。明らかにすることは大切だ。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>律法を与える方。人間がどのように生きるか、創造主として、人間をご自身に似せて造られた方として、人間の生き方について願いを持つ方。
- <御父>神はイスラエルに律法を与え、全人類を神の裁きに服するようにされた方。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>律法は罪の自覚を与える。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、今日は律法は罪の自覚を与えると教えられました。そしてあなたが戒めを与えるとき、そこにはあなたのどんな意図があるのか、そしてそれを人間が守ることができないとするなら、それはなぜか、そこにどんな罪があるのか、それをきちんとさせることが説教の役割であると知りました。
- そこでまず、山上の説教の戒めを取り上げ、考察してみたいと思いました。自分の内に、どんな思いがあって、その戒めに抵抗するのかも、観察したいと思いました。そのために四つの戒めを選び、順に観察したいと思います。導いてください。
☆与えられた導き
- 山上の説教から四つの戒めを取り上げ、考察する。
~~~~~
①マタイ 5章16節
②マタイ 5章43~44節
③マタイ 6章24節
④マタイ 7章7~8節