ローマ 7章7~12節 恐るべき罪の力
2024年1月10日
(内容)
- パウロは律法について否定的に見えることを語ってきた。でもパウロは、律法は聖なるものとの理解を示す。
(黙想)
- これまでパウロは律法について語ってきた。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ロマ3:21)。「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました」(ロマ5:20)。「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています」(ローマ7:6)。
- これらを読むとパウロは律法を否定的に理解していると読める。旧約聖書には、神はイスラエルの民に律法を与え、「これを守りなさい。そうすればあなたがたは命を得る。祝福される」と語られた。人は律法を守る努力をすればよいとユダヤ人たちは信じている。回心する前のパウロもそうだった。
- 律法は神の御心を示す。律法を知ることにより、何が罪かを人は知る。神の御心に背くことが罪である。律法を知らない者は罪を知ることがない。7節で、パウロは律法の役目を語っている。罪を知らせるという役目である。
- 律法についてもう一つ語るべき事がある。パウロはここで罪を擬人的に語る。罪は律法を守ろうとする者に対して、律法に背く思いを私たちの心に起こす。律法が「むさぼるな」と命じると「むさぼりたい」との思いが私の心に起きるのである。その結果として、私はむさぼりの罪を犯してしまう。
- あたかも律法が私たちを罪に導くように見える。それは違う。罪が律法を利用するのである。律法は利用されてしまうのである。その結果、私は罪を犯してしまう。律法は何も悪いものではない。神の律法であり、聖なるものである。
- パウロは、罪は掟によって私を殺してしまったと書く(11節)。あるいは「掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました」と書く(9~10節)。
- 要約すると
- 律法は罪を自覚させる。
- 罪は律法を通して、私を罪に導く。
- その結果、私は死んだ。罪は私を殺した。
- 律法は聖なるものであることに変わりはない。
- パウロは、罪を擬人化する。私に対して働きかけ、罪を犯させようとする力として罪を描く。この力はキリスト者に対しても働く。いや、キリスト者だからこそ、この力が働く。
- パウロは、律法について3章でこう語っている。「私たちは信仰によって律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのである」。パウロは律法を否定しないし、軽んじてもいない。確立すると語り、キリスト者は律法を守ることを語る。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>私たちに罪を犯させようとする力としての罪がある。
- <警告>この罪の力に負けてはいけない。自分がキリストに結ばれて、罪の支配から解放されていることを信じ(6章)、神の御心に従い、生きることが大切となる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。
- パウロが語る罪からの救いは深い内容を持ちます。信仰的な霊的な事柄なので、伝えるのは簡単ではありません。伝える者が、この救いを受けていなければ、言葉として語ることができても、伝わらないように思います。この救いを受けた人は、この救いについて自分の言葉で証しとして語ることが出来ます。
- 私自身、語ることができる者となり、実際に語りたいです。1月21日に説教奉仕の機会が与えられています。このロマ書から説教しますので、準備を導いてください。自分の言葉、証しの言葉を交えて語ることができるように導いてください。
☆与えられた導き
- 説教準備の導きを祈る。