第一コリント 13章5節(1) 愛は礼を失せず

2020年1月18日

(内容)

  • 愛は礼を失せず、自分の利益を求めない。

(黙想)

  • 「礼を失せず」。新改訳聖書では「礼儀に反することをせず」。口語訳聖書では「無作法をせず」とある。原語の意味は disgracefully に振る舞うとある。みっともない行動をする、恥ずかしい行動をする。あるいはdishonurableniに振る舞う。恥ずべき、不名誉な、尊敬されない行動を取ること。さらにはindecentlyに振る舞う。下品な、見苦しい行動をする。
  • ギリシャ語聖書の英語訳からすると他者の目から見て自分の行動がよくないことを示すように思える。恥ずべき行動をすることを意味する。日本語の聖書訳では、相手に対して自分の行動がよくないとの意味で、相手に対して失礼な行動をしたことを意味するように思える。
  • 愛する場合、そこには相手がいる。相手の目から見て、自分の振るまいが恥ずべき行動をしてはいけないとの意味になるし、自分の振るまいが相手に対して、敬いがないとの意味にもなる。
  • パウロはなぜ、愛することの具体的な内容として「礼を失せず」を列挙したのか。そこにどのような意味を込めたのか。コリント教会には色々な問題があった。信者の行動にも問題があった。キリスト者としてふさわしくない行動があったのだろう。
  • 聖書は、神を愛し隣人を愛することを教える。私たちは人の目を気にするから、案外見苦しい行動、恥ずべき行動はしないようにしているかもしれない。今回この聖書を読んで、自分は神に対して、ふさわしくない振る舞いをしていないかと問われる思いがした。神に対して礼を失するような行動をしていないか。
  • 自分の利益を求めないことについては、10節で書かれていた。「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない」「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない」。「だれでも自分の利益ではなく、他者の利益を追い求めなさい」とある。これは隣人愛である。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • <警告>礼を失するような行動は避ける。人に対して、神に対して。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、パウロは愛することをあなたから学びました。旧約聖書には、あなたのイスラエルの民に対する関わりが描かれています。あなたはイスラエルの民に対して礼を失するような振る舞いをされません。いかに彼らが罪を犯したとしてもあなたは逆上したり、思いつきで裁くようなことはなさいませんでした。忍耐強く彼らが罪を悔い改め、あなたに信頼するのを待ちました。あなたはイスラエルの民に対して、そして私たちに対しても礼をもって接してくださると信じます。
  • そこで、わたしはあなたに対して礼をもって接しているのだろうかと考えます。あなたはわたしの神、主なる神です。そのあなたに対する私の態度はどうなのかと考えます。最近思うことはあなたをたたえること、あなたの栄光を現すことです。私たちの日々の生活では、ハレルヤ、とほめたたえるような際だったあなたの御業が起きるわけではなく、あなたをほめたたえることは、建前になりがちです。心から、あなたをたたえ、あなたの栄光を仰ぎ、あなたの栄光を映し出す者として歩みたいということを思います。「栄光」をテーマとして聖書から学んでみたいと思います。ここにあなたを神として崇め敬う道筋が開けてくるのではないかと思います。
  • 今日は、聖書において、あなたが栄光を現された場面を調べてみます。

☆与えられた導き

  • 神さまが栄光を現された場面を聖書から調べる。

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出エジプト記14章

  • 神は海を二つに分け、道をつくった。イスラエルの民はその道を歩き、向こうに渡った。イスラエルを追いかけてきたエジプト人軍がその道を追いかけると海はもとに戻り、エジプト軍は海に溺れて壊滅した。エジプト軍からの救いという大いなる出来事は神のみ業であった。神はご自身がイスラエルの民を救う全能神としての栄光を現された。

出エジプト記24章

  • イスラエルの民がシナイ山の麓にいた時、彼らの目にシナイ山の頂がが燃える火のように輝いているのが見えた。神のご臨在のしるしとして山頂が明るく輝いていた。

出エジプト記40章

  • モーセは神の名に従い、幕屋を造らせた。中には聖所がある。すると雲が幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちたとある。神の臨在のしるしとしての雲が幕屋を覆ったという。その時モーセは幕屋に入ることができなかった。

歴代誌下7章

  • ソロモンが神殿を建設した時、主の栄光が神殿に満ち、祭司たちは神殿の中には入れなかったとある。

イザヤ6章

  • 預言者イザヤは、神殿が煙に満たされたのを見た。神の臨在に触れ、「災いだ。私は滅ぼされる」と言った。
  1. 旧約聖書では、神のご臨在に伴い現れる現象をさして神の栄光が現れたと語っている。神の栄光は神の側から、神が現すものである。
  2. 新約聖書になると、信仰者が神の栄光を現すということが語られる。
  3. イエスは、その活動を通して、神の栄光を現したと語る(ヨハネ17:4)。
  4. イエスは弟子のペトロが殉教の死を遂げることを通して神の栄光を現すと語った(ヨハネ21:19)。
  5. そしてパウロは、「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(コリント一10:31)と語る。
  6. 神の栄光を現すこと、これは信仰者が神に礼を尽くすことに他ならないのではないかと思う。