以下の文章は、金沢元町教会の教会報(2017年3月発行)に寄せた文章です。この3月に私は金沢元町教会を辞任し、牧師を引退することにしました。以下の文章は、遺言のつもりで、教会報に書きました。


以前、教会員のMさんを訪問した時、Mさんがおっしゃいました。

「老いを生きるとは、新しい経験をして生きることだ」。

老いの時期は今までに経験したことのなかった心身の衰え、病気、伴侶の喪失などに直面します。若い時も新しい経験をして行く時期です。自分の人生がこれからどのように展開していくのか、ワクワク楽しみにする時期です。老いの時期は、それとは対照的に衰え、持っていたものを失うというマイナスを経験する時期です。己の境遇のみじめさを嘆く人もおられることでしょう。でも自己憐憫に陥っても何も生まれません。人の思考は悪い方向に行き、思い煩いに陥り、気持ちは鬱(ふさ)いでいきます。

私たちは幸いです。「信仰こそ旅路を導く杖」。そして信仰を導く杖つまり聖書があるからです。老いの時期もまた聖書を読んで歩みます。聖書を読み、思いめぐらし、聖書を通して神さまが語ってくださると信じ、神さまは、私の生活を導いてくださると信じ、どんな導きを与えようとしてくださるのかを黙想するのです。私たちは神さまを信じます。私は次のような信仰告白をもっています。

  • 天の父は、私のことをすべて知っておられます(詩篇33:13~15)。
  • 天の父は、私に最善の導きを与えようとしておられる愛の父です(ローマ8:28)。
  • 天の父は、聖書を通して導きを与えようとしておられます(箴言3:5~6)。
  • それゆえ、私は天の父の愛を受け、その導きを受け、天の父の与える最善の導きの中に生きていきます。

参考のためにその聖書を書きます。

「主は天から見渡し/人の子らをひとりひとり御覧になり、
御座を置かれた所から/地に住むすべての人に目を留められる。
人の心をすべて造られた主は/彼らの業をことごとく見分けられる」(詩編33:13~15)。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8:28)。

「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。
そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」(箴言3:5~6)。

 

その上で、次のようにして聖書を読みます。信仰誌『信徒の友』などにある聖書日課とされる箇所を読みます。そして以下の視点に注目して聖書を読みます。

  • 神さまは、どのようなお方なのか
  • 神さまは、どのような生き方を私たちに望んでおられるのか。

その日に読む聖書の箇所から、以上の視点に立って読み取ります。するとどうなるのかというと、神さまは「私は・・・のようなものだよ」と私に語りかけてくださったことになります。神さまは「私はあなたが・・・・することを望むよ」と語りかけてくださったことになります。そう信じるのです。語りかけてくださっていると考えるのです。信じられるようになれば幸いです。その上で、神さまは私をどのように導こうとされているのかを思いめぐらすのです。私には、生きている現実があります。この現実に対して、神さまは導きを与えようとしておられると信じます。それを祈り求め、神さまの導きと思われることを実践するのです。単純です。日毎の糧として聖書をただ読むだけではなく、導きを得るほどに聖書を思いめぐらすのです。これは幸いな業です。このように聖書を読み、神さまは私の信仰生活、牧師生活を導いてくださいましたし、私の説教にも大きな影響を与えてくださったと信じて感謝しています。

老いの時期、このように「聖書を友」として生きることは、一つのチャレンジです。チャレンジは若さを保つ秘訣です。チャレンジする皆さんの上に神さまの祝福をお祈りします。