1.信仰的事実(霊的真理)

「神は存在する」、これはだれもが認める客観的な事実ではありません。つまり私たちは、神が存在するという証拠、しかも誰もが認めることができるような証拠を提示することはできません。神が存在することを証しすることはできます。私たちが証しをしたとしても、信じない人は、それは思い込みだとか、それは偶然だとか反論することはできます。ですから、神が存在するという客観的な事実は誰も提示することはできません。

しかし信仰者は神が存在すると信じて、つまり神が存在することを前提として生きています。信仰者にとっては、神が存在するということは「信仰的事実」なのです。信仰生活は、この信仰的事実に立つことから始まります。私たちは「信仰的事実は」を霊的真理と呼ぶこともできます。信仰者はこの真理に生き、この真理を証しするために生きているということができます。

「イエス・キリストは救い主である」。これも霊的真理であり、信仰的事実です。誰もが認める客観的な事実ではありません。伝道とは、この霊的真理が本当であることを信仰を持っていない人に証しすることということができます。信仰者は、イエス・キリストが自分の救い主であることを信仰的な事実として生きています。

イエス・キリストを信じる人は罪赦され、義とされると教えられます。イエス・キリストを信じる人は、自分が罪赦されていること、義とされていることを信じます。聖書が、主イエスを信じる人は罪赦され義とされる、と語るとき、これは霊的真理と呼ぶことができます。信仰者は、罪が赦され義とされているという信仰的事実に立ちます。つまり自分は罪赦されており、義とされていると信じて生きていきます。

信仰者は霊的な真理に立ち、信仰的事実に立って歩みます。

 

2.信仰的事実に対する疑い

信仰者も時に神の存在を疑うことがあります。試練が続き、苦しみが続くとき、いくら祈っても状況の改善が見られないとき、神は本当にいるのかと疑うこともあります。客観的な事実に対して私たちは疑問を出すことはできません。疑いの余地がない、それが客観的な事実です。しかし霊的真理、信仰的事実は、疑うことは可能です。そして信じるとは、信仰的事実に立つとの決心であり、決断です。私たちは時に、この決断と疑い・迷いの間を右往左往することがあります。疑うことを恥じる必要はありません。疑うこと、それはさらに強固な信仰に立つために必要なステップと言うことができます。そして信仰は神の賜物です。人間の力で、疑い・迷いを取っ払うことはできません。

その昔、アブラハムは神から呼びかけられました。

「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように」(創世記12章1~2節)。

アブラハムは、「あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」という神の約束を信じ、「私が示す地に行きなさい」との神の命令に従いました。アブラハムにとって、彼が大いなる国民になり、神に祝福され、彼の名が高められるということは、信仰的事実です。彼はこれを信じました。この信仰的事実に立ちました。そして神の命令に従いました。

その時、彼は75歳、彼の妻サラは65歳。二人とも老人であり、しかも子供はいないのです。子供が与えられなければ子孫は増えません。彼はある時、神の約束を疑いました。その時神は、

「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」と言われ、アブラハムはこれを信じたとあります。

信じて生きるとは、疑うことがあったとしても、その疑いを超えて信仰的事実に立って生きることです。

 

3.ここが急所

信仰に生きるとは、信仰的事実に立って生きることです。つまり実感に左右されないということです。実感に左右されるのが私たちの現実であることも事実です。その上で、私たちは信仰的事実に立ちます。

信仰的事実に立たないとどうなるのでしょうか。私たちは実感に左右されます。そして私たちの信仰は揺れ続けます。たとえば困難が続けて起こり、神の愛が信じられない、いや神がいるのかどうかも分からなくなるということがあるかもしれません。神の愛、神の存在が実感によっては信じられなくなる時があるかもしれません。それにもかかわらず信仰に立つ、その時、確固たる信仰になっていきます。疑いを超えて信仰的事実に立って生きることができるようになることを信仰の成長といいます。疑うことや信仰が揺れ動くことを恥じる必要はありません。私たちはいつも成長の過程にあるのですから。