ルカ福音書 24章28~35節 目が開かれる

2024年4月9日

(内容)

  • 二人の弟子は、イエスを引き留め、自分たちの村に泊まるよう勧めた。食事の時、イエスがパンを裂き、神を賛美した時、弟子たちはその人がイエスだと分かった。

(黙想)

  • この二人の弟子たちがエマオ村に向かって歩いていた時、イエスが近づき、声をかけた。その時彼らは、目が遮られていてイエスだと分からなかった。しかし村に入り、泊まる家で食事を共にした。その時イエスが、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡した時、弟子たちの目が開け、その人がイエスだと分かったとある。
  • 目が遮られているとイエスだと分からず、目が開かれるとイエスだと分かる。目が遮られている状態では信仰に生きることはできない。目が開かれ、イエスだと分かる時、イエスを信じる歩みが始まる。
  • 二人の弟子がそうであるように、人は目が遮られているが、やがて目が開かれ、信仰に生きる者とされていく。いったん目が開かれたら、すべてが見えるようになるかと言われたら違う。人は多くの点で目が遮られている。信仰に生きるとは、段々と目が開かれていく歩みでもある。
  • 二人の弟子は食事をしている時に目が開かれた。彼らはイエスがパンを取り賛美の祈りを捧げ、パンを裂き、それを弟子たちに渡した時に目が開かれた。それは弟子たちがイエスと行動を共にしていた時、イエスと一緒に食事をしていた時の場面を思いだし、目の前にいるのがイエスだと分かったのだと思う。
  • イエスだと気づいた時、イエスがエマオ途上の道で聖書を説明したのを聞いていた時、自分たちの心が燃えていたことを思い出した。目が開かれた弟子たちは、聖書の説明を聞いた時に心が燃えていたのを思い出した。聖書、神の言葉は人の心に影響を与える。聞いた人にそれは好ましいものであり、その人の生き方を変えていく。生き方を変えられるとは、神の言葉を聞いたことの証しでもある。
  • 二人の弟子たちは、イエスが復活したことが分かり、このことを他の弟子たちに伝えるべく、即座にエルサレムに向かった。行動を起こしたのである。
  • あらためて思う。信仰に生きていることは、神がおられることの証しである。自分が新生していると信じ、生きていることは、イエスの復活を証しすることである。自分の歩みが何を証ししているのかに気づくことは大切である。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>イエスは復活し生きておられる方。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>復活の主イエスに出会った二人の弟子は、主イエスが復活されたことを他の弟子たちに伝えるべく、行動を起こした。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝です。
  • 二人の弟子は目が開かれ、目の前にいる方がイエスであると気づきました。その瞬間、イエスは消えたとあります。主イエスが復活されたことを確信した二人の弟子は、それを伝えるためにエルサレムに戻りました。目が開かれ、何かに気づいた時、そこに信仰の行動が生まれることを教えられます。
  • また私たちも目が開かれ、何かに気づき、信仰の歩みに変化が生じる信仰生活をしていると言うことができます。信仰の気づきが繰り返し与えられ、私たちの信仰の歩みが確かなものとされ積み重ねられていきます。
  • 私は信仰の歩みをずっと続けてきました。このことは神がおられることの証しであり、イエス・キリストが私たちの救い主であることの証しです。
  • 私の内には信じる心と疑う心があります。だから私は、自分に対して証しをします。疑う心に対して、私の人生は神を証しするものであることを宣言します。疑う心をもたらすサタンに対して、私は信じると「信仰の盾」と突きつけます。
  • 天の父なる神、信仰の弱き私を助けてください。これまでのあなたの導きを確信し、大胆に信仰に生きる者として下さい。イエス・キリストの御名により祈ります。
☆与えられた導き
  • 大胆に信仰に生きる者となれるよう祈る