1.私の経験から

これは神学的命題を新たに主張しようとするものではなく、また罪とは何かを定義するつもりのものでもありません。私の個人的経験から得た罪理解です。

ハイデルベルク信仰問答は、「わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いている」と述べます。これは

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」
「隣人を自分のように愛しなさい」

という神の戒めを私たちが守ることができない理由として、述べられたものです。人間の心は生まれつき汚れているのです。このことを「本性腐敗」あるいは原罪と呼ぶことがあります。憎む、それは言い換えると交わりを拒むことです。人間が生まれたときから罪人であることはダビデが語っているとおりです。

「わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです」(詩編51:7)。

  • 私自身はこれまでの人生で2回、自分の罪を思い知らされたことがあります。信仰に入る前と牧師になってからです。信仰に入る前、体に悪いと知りながら喫煙を続けました。ある時、自分は神が与えてくださったこの体を傷つけていると思い知らされ、罪を自覚しました。それが洗礼を受けるきっかけとなりました。もう一つは、牧師になってからでしたが、牧師会で自分を守るために嘘をついたことです。嘘をついたとき、自分が嘘をついたという自覚はありませんでした。牧師会からの帰り、嘘をついたことが思い出されました。その頃は、自分はよい人間であると思っていたのです。それがとんでもない思い上がりであると知らされ、自分は頭のてっぺんから足のつま先に至るまで、罪の塊であると思わされました。
  • しかし信仰生活の中で、神が「するな」と言われたことをしないでいると、いつの間にか、自分は正しく生きているような気になってきます。すべきことをしないという罪はなかなか自覚されません。頭では自分は罪人と思いつつも心では、信仰者らしく生きているとの思いになってしまいます。そんなある日、自分は神さまの心に無関心であることに気づかされました。その時から、自分はましな信仰者である、との思いは消えました。
  • 神さまの心に無関心では、神さまとの交わりに生きることはできません。神さまのことよりも自分のことに関心が向きます。つまり自己中心です。自己中心の背後には、神に無関心という心があります。この無関心が人間の心の奥底にあるのではないか、と考えています。神に対する無関心は、隣人に対する無関心につながっていきます。

2.罪を父なる神との交わりの拒否、と考えないと

  • 罪を神との交わりの拒否と考えると、罪は悪しき行いをする「こと」となります。すると、私は足こととそんなにしていないと考え、自分は善き人間であると考えるようになります。聖書には律法学者とかファリサイ派の人々が登場しますが、彼らは、自分たちは神の戒めを守っているとの誇りを持って生きていました。自分を誇るようになります。
  • また悪しき罪を克服できないでいると、自分の弱さ、自分の頑なさがその原因であるとし、そのような者を神さまは赦してくださるのだと考えます。罪に勝利することは考えられないのです。罪との戦いをしません。自分の弱さ、頑なさの中に居座ってしまうのです。自分を罪深いとし、赦しを感謝しますが、それは真の謙遜ではありません。
  • 姦淫を犯したダビデは、神に「わたしの内に清い心を創造し」を願っています。神さまは、罪を赦しを与える方ですが、清い心を創造してくださる方です。