第一コリント 13章4節(1)愛は忍耐強い

2021年1月5日

(内容)

  •  愛は忍耐強い。

(黙想)

  • 口語訳聖書では「寛容」とある。英語の聖書では 「suffer 苦しむ、辛抱する」とある。他者の行動に対する自分の態度を意味する。相手の行動に対してすぐに怒ることをしない態度を意味する。
  • この「忍耐強い」は、愛がどのようなものかを語る一連の表現の最初の表現である。私たちの感覚では、愛とは何かと言われたら、これとは別の言葉が出てくるだろう。「愛する」とはどういう意味かと尋ねられたら、相手の存在を喜ぶこと、と僕は答えるかも知れない。パウロは愛することの第一は「忍耐する」「辛抱する」をあげる。彼の意識の中には、神の愛があると思う。神の愛の第一は「忍耐、辛抱」なのである。これは僕にとって大きな発見である。
  • 神の忍耐で思い出すのは、荒野を旅するイスラエルに対するもの。旅も目的地を目の当たりにするところまで来た。モーセは偵察隊を派遣して約束の地を探らせた。そこは良い土地であるが、強い民もいた。それを聞いた民は泣き、文句を言った。「エジプトの国で死ぬか、荒野で死ぬ方がよほどましだ」。約束の地に入って強い民に殺されることを恐れたのである。民は、荒野の旅の中で難度も困難に直面したが、必ず神が助けたことを忘れ、神に信頼しようとしなかった。神の堪忍袋の緒はついに切れた。その時モーセが執り成した。その時モーセは、神に向かって「あなたは忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦す方」と語っている。神は民を赦した。モーセは神の忍耐強さに訴えた。
  • シナイ山の麓で神はご自身がいかなる方かをモーセに示された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」。聖書の神は忍耐強い神であることが分かる。つまりイスラエルの民の不信仰、罪に対して、すぐには怒らないのである。
  • ネヘミヤ記でネヘミヤも神の忍耐を語っている。背信を続けるイスラエルの民に対して、神は預言者を送り続け、民が神に立ち帰るのを忍耐強く待ち続けた。しかし立ち帰られなかったのでイスラエルはついに外国の手に落ちた。

ネヘミヤ 9:30
長い年月、あなたは忍耐し/あなたの霊を送り/預言者によって勧められたが/彼らは耳を貸さなかったので/諸国の民の手に彼らを渡された。

  • さらに新約聖書も神の忍耐を語る。

ペトロの手紙二 3:9
ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。

  • これは終末の到来が遅いと考えている人たちに対する言葉。終末がまだ来ないのは、神が人々が悔い改めるのを忍耐をもって待っているからと語る。そして

ペトロ二 3:15
また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。

ローマ 2:4
あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。

  • これは人を裁こうとする者への警告の言葉である。人を裁きながら自分も同じことをしている者への警告である。神の忍耐の背後には、罪を犯す人間の悔い改めを待つ思いがある。罪を悔いた者が神を畏れ、神に信頼して生きるのを神は待っている。だから人間の罪に対して、すぐに怒ることをせず、忍耐強く人が悔い改めるのを待っておられる。これが聖書が告げる神。
  • そもそも神はなぜ忍耐をするのか。それは神がイスラエルの民を神との交わりに招いているからである。そもそも神が、憐れみ深く恵みに富み、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた神であるとは何を意味しているのか。それは神が人間を神との交わりに生きるように招いていることを示す。そしてご自身がいかなる方かを明らかにしているのである。このような神とあなたは交わりを持って生きないか、と呼びかけているのである。
  • 人間と交わりを持ちたい神、人間との交わりを喜ぶ神、それが聖書の神。交わりを持つ時大切なものは愛。神は愛をどのような形で示したのか。それは「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」(ヨハネ一4:9)。
  • 神は忍耐強く、私たちが神の招きに答えるのを待っている。辛抱強く待っている。人間が神を愛し、神との交わりに生きることを待っている。しかもその人間は、神の背き、不信仰に走る存在なのである。そして人間は、自分の願う神の像を造る。キリスト者といえども偶像を造っているかも知れない。聖書を読んでいても、自分の目から見て神らしい「神」を造ってしまうのだ。
  • 人間は自己中心に陥りやすい。放っておけば人は利己的になる。キリスト者もまた、その傾向を持つ。自己中心的な敬虔に陥りやすい。僕がどんなキリスト者であっても、神は忍耐強く待っている。全身全霊をもって神との交わりを願い、神を愛するのを。
  • 神の愛が忍耐強いことにあることは分かった。パウロは最高の道として「愛する」ことを教えようとしている。ここで二つの問いが生まれる。第一は「愛する」ことは本当に最高の道なのか。もっと他に大切なものがあるのかどうか。この世の人々は、「愛する」ことを一番大切なこととしているようには見えない。第二の問いは、「愛する」ことが最高の道であることを認めたとして、すべてのキリスト者はこの最高の道を歩かなければならないのか。パウロはコリント教会の人たちにこの最高の道を歩むように勧めている。でも最高の道であれば、キリスト者の中で特別な人がその道を歩めばよいのであって、キリスト者ならだれもが歩むべきであるとは言えないのではないか。
  • 自分はこの「愛する」ことを最高の道と認め、この道に歩むことを選択するのか。選択できるのか。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父> 忍耐強い方である。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>忍耐強くあること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝です。「愛は忍耐強い」。これは神さまの愛であることを確認しました。そして私たちもこの愛に生きるように勧められています。パウロは愛は最高の道であると教えました。
  • 「愛する」ことは最高の道であるとパウロは語りましたが、愛することが最高の道であることは自明ではありません。これは信じるか信じないか、自分の考えが問われます。愛が最高の道でないなら、できる範囲内で他者に対して忍耐強く振る舞えばよい、と言うことになります。愛は最高の道なのかどうか、自分の答えを出さなければなりません。
  • 天の父なる神さま、私はイエス・キリストにより救われました。この救いは、私の人生の出発点です。そしてここにはあなたの忍耐強い愛があることを知ります。あなたのことよりも自分のことを優先しがちな自己中心の罪を持つ私をあなたは、あなたとの交わりに招き、私が心からあなたを愛するのを待っておられました。あなたの忍耐があるから、今の私がいます。あなたの忍耐強さを感謝し、忍耐強さのゆえに、あなたを賛美し、崇めます。
  • 他者との交わりに生きるためには、忍耐強さが大切であると理解します。そして他者に対して忍耐強くありたいと思います。
  • ただ、今は、愛が最高の道であるかどうかは、そうだとは思いますが、愛が最高の道であるかどうか、これまで考えたことがありません。ですからコリント書の愛に関する教えを黙想する中で愛が最高の道であるか考えたいと思います。またあなたが私に対して忍耐強くあられたことも考えたいと思います。私の人生で3回明確に自分の罪を知ったことがあります。その時、あなたがどんな気持ちで折られたのかは考えたことがありません。あの時、あなたがどんな気持ちで折られたのか、あるいは神学校へ行く用導かれたあなたの思いを想像してみたいと思いました。
☆与えられた導き

・私の人生の岐路での神さまの気持ちを考えてみる。