マタイ福音書 6章9節

2020年9月19日

(内容)

  • 私たちが信じる神は「天におられる父」。イエスはこの方に「天の父よ」と呼びかけるように教えられた。

(黙想)

  • イエスは、祈りを教えられた。「天の父よ」と呼びかけることを。神が天におられる父であることは自明ではない。そもそも神を父と呼ぶなんて、どうしてどんなことができるのだろう。我々はそもそも神がいかなる方か知らなかった。どのようにして神を天の父と呼ぶことができるのだろうか。
  • 私は洗礼を受けてイエス・キリストに結ばれ、神の子とされた(ガラテヤ3:26)。子であるからには神を「天の父」と呼ぶことができる。
  • ではイエスにとって天の父なる神とはどのような方であったのか。イエスは父なる神とどのように関わって生きたのか。神をどのようにして父なる神としていたのか。
  • イエスは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、父なる神に従順に歩まれた。イエスは父なる神の御心に従順に歩まれた。父なる神は、生きるべき道筋を示す方であり、そのことを通して私たちを生かす方である。イエスは父の御心を重んじ、死に至るまで従われた。
  • 子には父の大きさはわからない。できることは父に信頼することである。父なる神はイエスをこの世に遣わし、救い主として歩ませた。それは十字架の死を遂げる道であった。イエスは、父なる神に信頼し最後まで従い続けた。またイエスは折々に天の父に祈られた。父との交わりに生き、その御心に従い通した。それがイエスにとっての父であった。
  • 放蕩息子のたとえをイエスは語った。父なる神がいかなる方かを教えられた。父のもとを自ら去ったのに行き詰まって帰ってきた息子を受け入れる父。自分は息子と呼ばれる資格はないと語る息子を、我が子として扱う父。それが父なる神。
  • 自分の罪を告白し、イエスを救い主とする私たちを子として取り扱ってくれるのが父なる神。この方を私たちも父として生きるようイエスは招く。
  • 父なる神は、私たちの隠れた行いを見ておられ、これに報いを与えてくださる神。私たちの必要を知っておられる神であり、私たちは思い悩む必要はない。天の父は求める者によいものをくださる方である。
  • この山上の説教において、イエスは父なる神さまがいかなる方かを語っている。父なる神は、私たちが他者を赦すことを求める神である。また天の父の子となるためには、敵をも愛し、父のように完全な者となることを父なる神は、私たちに願っている。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>天の父である。
☆神が求める私たちの生き方
  • <勧め>神を天の父と呼ぶこと

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日はあなたのことを思いめぐらしました。聖書からあなたがいかなる方であるかを思い起こしつつ、あなたを思いめぐらしました。あなたは父なる神としてご自身を私たちに現してくださいました。私はあなたを信頼すべき方と受けとめます。
  • そして父なる神として、私を導き生かしてくださる方として受けとめます。それゆえ、あなたの導きには従順に歩む者となります。たといそれが十字架の死に至るものであっても、従います。
  • あなたは、あなたのもとを自ら離れ、行き詰まって帰ってきた息子を受け入れました。罪を犯してもあなたのもとに戻ってくる者をあなたは受け入れ、子として愛してくださることを知ります。
  • あなたは私たちの歩みをご覧になっており、隠れた行為もあなたは知ってくださいます。あなたは求める者によいものを与えてくださいます。
  • 今日は、最近の自分の思いをあなたに打ち明けたいと思いました。そしてあなたの導きを受けたいと思いました。イエスが朝早く、また夜遅くあなたにお祈りしたように、私も祈ることにします。
☆与えられた導き
  • 最近の思いを神に告げる。