マタイ福音書6章9~13節 主の祈りに驚く
2023年11月29日
(内容)
- イエスは、こう祈りなさいといって、主の祈りを教えられた。人間に必要な祈りは何か。
(黙想)
- こう祈りなさいと教えられた主の祈り。最初は神への呼びかけ。神に関わる祈りが3つ。そして自分のために祈りが三つある。
- 自分に関する祈りは、必要が満たされるようにとの祈り、そして自分の罪の赦しを求める祈り、誘惑に遭わせず、悪しき者からの救いを求める祈り。この三つである。自分のために祈る祈りは、この三つで十分という。
- 罪を犯した時に備えて赦しを求める祈り、罪を犯さぬように、誘惑に遭わせず、悪しき者から救って下さいと祈る。そして必要な糧を今日も与えてくださいと祈る。確かにこれだけ祈れば、十分と言えば十分かも知れない。自分が神の前に生きる者であることに徹すれば、自分のためにはこれで十分かも知れない。イエスは十分だという。
- 神に関わる祈りは、自分にも関わる。神のみ名が崇められるようにと祈るが、誰によって崇められることを祈るのか。第一に、自分が神のみ名を崇める者として生きることができるようにとの祈りである。他の人たちが神の御名を崇めるのではなく、まず自分が神の御名を崇めるのである。その上で神のみ名が多くの人によって崇められることを願う。
- 御国が来ますように。御国、それは神の御支配を意味する。この世は悪魔の支配下にあり、多くの人は罪の奴隷になって生きている。罪が支配する世でもあり、罪がもたらす結果に人々は苦しんでもいる。それゆえ、神のご支配が確かであり、現実となるようにとの祈りは切実である。
- そして御心が行われるように。誰が御心を行うのか。それはまず自分である。そして他の人々である。
- キリスト者はわが身を通して神のみ名が崇められるように、また御心を行う者として生きることを祈り求める。神の導き、助けなくして、キリスト者の歩みを全うすることはできない。
- キリスト者は神との関わりに生きる者であることを示されるし、神の助けなしに生きることはできないことを思う。 聖書が教えるキリスト者としての歩みを自分がしたいと願うかどうか、問われる。
- それにしても、このような祈りを思いつくこと自体がすごいと思う。僕は祈りとは何か、分からないところがあった。ここに答えがあるのかも知れない。何を祈るのか、それが明確に示されている。この祈りはキリスト者として生きるよう徹することを求める。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>イエスは、こう祈りなさいとこの主の祈りを教えられた。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>この祈りは、キリスト者とは何かを教えてくれる祈りである。キリスト者とは何かを自覚させられる祈りである。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、今日は主の祈りを味わいました。印象の残ったのは、自分のためには、必要な糧を求めること、罪の赦しと、誘惑、悪しき者からの救いを求め、罪を犯さないようにと祈ることが印象に残りました。
- 罪の赦しを求める祈りと罪を犯さないようにと願うこと、自分のためにはこれで十分ということに驚きました。
- 朝食の時に主の祈りを祈っていますが、これはもう習慣的なもので、祈りを味わいながら祈っているかと言われたら、味わっていないというのが正直なところです。それは主の祈りの内容をきちんと知らないからということもできます。
- 今日は、自分のための祈りについての驚きをブログに書いてみたいと思います。そして自分に対して深く意識させたいと思います。
☆与えられた導き
- 驚きをブログに書く