マタイ福音書 6章12節
2020年10月31日
(内容)
- 自分に負い目のある人を赦したように、私たちの罪を赦してください。
(黙想)
- 赦しについては、この主の祈りのすぐ後に、つまり14~15節に補足的な言葉がある。そこでは私たちの罪が赦されるかどうかは、私たちが他者の過ちを赦したか否かで決まるとされる。私の罪が赦されるかどうかは、私たちが他者の罪を赦すかどうかで決まる。
- 私たちの罪はイエス・キリストのゆえに赦されるというのが聖書の教えである。洗礼を受ける前の罪はイエス・キリストを信じたゆえにすべて赦されるが、その後は他者を赦すなら自分の罪は赦されるが、赦さなければ自分の罪は赦されないということなのか。
- マタイ18章には仲間を赦さない家来のたとえがある。自分が仕える王から多大な借金を赦された家来が、仲間に対するささやかな貸金を赦さず、あくまでも返却を求めた。その時王は怒り、赦した借金を返すように迫った。主人から多大な借金を赦された家来は、仲間のささやかな貸金は赦すべきなのである。なぜなら王から多大な借金を赦されたことは本来感謝すべきことであり、感謝するなら、仲間のささやかな貸金を赦せるはずであり、赦すべきなのである。
- 仲間の貸金を赦せないのは、王から多大な借金を赦されたことを感謝していないのである。自分の罪を神から赦されていることをどう受けとめるのかがポイントである。
- このことを念頭に考えると主の祈りはどうなるのか。
- 他者の罪を赦したから、私の罪を赦してくださいとの祈りは、自分の罪が神に赦されているので、自分は他者を赦したと、神の赦しを感謝していることが分かる。この人が罪を赦されるのは当然である。
- 15節の他者の罪を赦さないなら、あなたの罪は赦されないは、18章のたとえの通りである。私たちは神に多く赦されているから、他者の罪を赦すことができる。他者を赦せないのは、自分が神に赦されていることが、どれほど感謝すべきか、分かっていないことを意味する。さらに言えば、自分の罪を大したことのないように思っている。
- 私たちの罪は、個別的な、具体的な行為としての罪がある。それ以上に神のみ心に無関心であるところに私たちの罪は極まる。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>自分に罪を犯した人を赦すこと。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、私は生まれたときからあなたに守られてきたと思います。というのは他者を赦せないというような強い思いを抱いた記憶はありません。ある時ひどく心を傷つけられたことがありましたが、その時は、赦せないという思いよりも、自分を傷つけた人を恐れる思いが強かったように思います。これもあなたの導きによって自分の思いを相手に伝えることによって解決しました。
- 敢えて言えば、夫婦喧嘩をして互いに口をきかずに二週間ほど過ごしたこともありますが、赦せないとの思いは抱きませんでした。実際には赦せないから口をきかなかったのかもしれませんが、これも話し合いで解決しました。
- 私としては、あなたによって赦しを与えられたことは大きな恵みです。他者がわたしに何かしても、赦せると思っています。イエス・キリストを通して与えられるあなたの赦しは大きな恵みです。
- 今日はアメージング・グレイスであなたの赦しを感謝し、あなたを賛美することにします。
☆与えられた導き
- アメージング・グレースで神さまを賛美する。