ローマ 5章18~19節 義とされる
2023年4月20日
(内容)
- アダムとイエス・キリストの対比が繰り返される。アダムの罪、つまり「一人の罪」「不従順」とイエス・キリストの「正しい行為」「従順」が対比される。
(黙想)
- パウロは3章21節以下で、イエス・キリストを信じる者はその信仰によって義とされると書いた。5章19節では、「正しい者」とされるとある。16節では無罪の判決が下されるとある。キリスト者は神の前に正しい人である。たとい罪を犯してもキリスト者は正しい人である。それゆえキリスト者の救いは確かである。神の前に、神が正しい者と認めた人が救われるのは当然である。信仰によって義とされる人の救いは確実であることをパウロは繰り返し語る。この絶対的な確実な義を与えられていること、それが福音である。
- キリスト者と言えども、このことを信じることはむずかしい。なぜなら、罪の赦しはいくらでも語られる。イエス・キリストを信じて義とされたクリスチャンが罪を犯したらどうなるのか。それでもなお義とされるのか。罪を犯したら義と認められたことは取り消されるのか。どちらなのか。パウロは、取り消されないという立場だと考える。
- 取り消されないと語ると、それなら罪を犯してもだいじょうぶだ、あるいは恵みを受けるために罪を犯そうなどと語る人が必ず出てくる。
- この問題についてはパウロは6章で取り扱っている。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>イエスは律法を守り、神に従順に歩まれた方。
- <御父>父なる神は、イエス・キリストを信じる者を義とする方。キリストを信じる者を「正しい者」とする方。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>キリストを信じる私たちは神の前に正しい者である。終わりの日の審判も恐れる必要はない。神の前に、神によって正しい者とされているのだから、救いは確実である。キリスト者はたとい罪を犯しても、義とされたことは取り消されないと考える。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。5章を読み進める中で、大いなる確信が与えられました。あなたはイエス・キリストを信じる者を義とされます。正しい者とされます。キリスト者は罪を犯すことがあるので、義とされたことが取り消されるのではないかとの疑問を持ちます。だから、イエス・キリストの贖いにより、罪が赦されたことを感謝する祈りがささげられます。罪を犯してもなお義とされていることを感謝するという祈りは聞いたことがありません。
- 今日は、キリスト者は罪を犯しますが、罪を犯したら、義とされたことが取り消されるのか否か、ルターやカルヴァンがどう語っているのか、調べてみたいと思いました。調べます。今日の導きを感謝します。
☆与えられた導き
- 罪を犯しても義とされたことは取り消されないのかどうか、信仰の先人の教えを調べる。