マタイ福音書 5章17~20節(2)キリスト者の義
2023年8月23日
(内容)
- 主イエスは、あなたがたの義がファリサイ派の人々の義にまさらないと天国に入ることができないと教えた。
(黙想)
- イエスと律法学者、ファリサイ派の人々は対立していた。
- 彼らから見るとイエスは律法を破っているように見えた。イエスは安息日に病人を癒やした。安息日には仕事をしてはいけないと十戒にあり、彼らはイエスの行為はこの戒めを破るものと理解した。またイエスは、取税人や罪人とされる人たちと一緒に食事をした。イエスは彼らと交際した。律法学者たちにとっては、取税人や罪人たちとの接触は、避けるべきであった。なぜなら彼らにとってそれは身を汚すことになるからである。身を汚すイエスの行為は、彼らには理解できない。神の前に身を汚す行為は避けるべき行為である。この点でもイエスは律法を破っているように見えた。
- 律法学者たち、ファリサイ派の人たちは律法を熱心に学び、実践することを心がけていた。彼らは律法を遵守するために、日常生活でどのようにすれば律法を守ることができるのか、細かい掟を作った。こういうときにはこのように振る舞えと細かい規則を定め、それを熱心に守った。
- 人々から見れば、彼らは立派な信仰者に見えたのである。彼ら自身も律法を守っていると自分たちのことを誇りに思っていた。
- しかしイエスの目には、彼らの信仰生活は規則を守るという形式的なもの、表面的なものに見えた。律法はそもそも神の御心から出たものであり、一つ一つの教えの背後にある神の御心を知って守ることが大切となる。しかし彼らは細かい規則を守るだけであり、神の御心に関心を向けていなかった。それゆえ、イエスは彼らを偽善者と批判した。
- イエスは「わたしは律法や預言者を廃止するためではなく、成就するために来た」と語る。私は律法を破っていないと律法学者、ファリサイ派の人たちに反論をしている。イエスは、律法はその文字一つもゆるがせにしてはいけないこと、律法を破ってもよいと教える者は、天の国では最も小さいものと言い、律法は守るべきものであることを明確に語る。
- そしてイエスはファリサイ派、律法学者たちの義にまさらなければ、あなたがたは天の国に入ることはできないと告げた。イエスは彼らのことを偽善者と批判した。それゆえ、偽善者が誇る義は取るに足りないものである。義と呼べるほどのものではないことを知る。
- 私たちはここで、天の国に迎えられるには、ファリサイ派や律法学者たちにまさる行いが必要だと受けとめるかも知れない。信仰者として神の教えに従い、立派な信仰者として振る舞う必要があると考えるかもしれない。自分の義を立てようとするのである。そして自分は義を立てることはできないと考え、自分は天の国に迎えられるのかどうか、不安になり、落胆することがある。
- 私たちは自分の行いによって救われるのではないことをはっきりと確認したい。神の教えを守り自分の義を立てようとする試みは失敗に終わる。私たちは自分の義を立てることはできない。
- その上でファリサイ派の義にまさるとはどういうことになるのかを考える。私たちは自分の努力で自分の義を立てることはできない。しかしイエスを信じるとき、神は私たちを義としてくださると教えられる。私たちは信仰により義とされている。神から義を与えられている。この義は、神から与えられた義であり、ファリサイ派や律法学者たちの義にまさる。
- だから、まず義とされていることを喜びたい。私たちは天の国に迎えられる者とされている。そのことを喜びたい。不安に思うことは何もない。
(聖書の教え)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>自分の義を誇らないこと。誇る心は、傲慢な心であり、自分の霊的な貧しさを知らない心である。
- <教え>私たちは信仰により義とされている。ファリサイ派の人たちにまさる義が与えられていることを喜びたい。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、この箇所の主イエスの言葉を読むとき、自分はあなたの目に、どれほど正しく振る舞っているのかと考え、自分の義に自信がなくなります。自分が天国に入れるほどの義を積んでいるか考えて不安になります。
- しかし私たちは自分の行いによって義とされるのではなく、信仰によって義とされることに固く立ちたいと思います。私たちはあなたから義とされています。あなたから義を与えられています。あなたから与えられた義は、ファリサイ派や律法学者たちの義にまさると信じます。
- あなたの恵みによって、ファリサイ派や律法学者たちの義にまさる義を与えられていると信じて感謝します。天の国に迎えられる者とされていることを感謝します。
☆与えられた導き
- 天の国に迎えられる者とされていることを感謝する。