マタイ福音書5章17~20節(1)律法と預言者
2023年8月16日
(内容)
- イエスは、律法と預言者を廃止するためではなく、完成するために来られた。
(黙想)
- 「律法や預言者」とある。聖書には「律法と預言者」との言葉も使われており、基本的には旧約聖書を意味する。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」。これこそ、聖書の中心的な教えであるとの表現。
- 旧約聖書を意味するが、さらにイエス・キリストを証しする旧約聖書という意味で使われていることもある。
ルカ 24:44
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」ヨハ 1:45
フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」。使徒言行録 28:23
そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。
- 旧約聖書はイエスが実現するとされたことを書いていると読むことができる。この箇所でもイエスは旧約聖書に書かれていることを完成するために来たという。それは人間を救うための業を行うことを意味している。
- イエスが救い主として行われる業は、旧約聖書に書かれている。それを実現されたとの意味となる。具体的には何か。
- イザヤ書53章、詩編22編は、主イエスの十字架を指し示していると言ってよい。イエスが十字架で死んだ後、イエスはなぜ十字架で死んだのか、戸惑っている弟子たちがこれらの箇所を読めば、イエスの死の意義を理解することができる。
- レビ記などで、罪を犯した場合に罪のあがないのために動物のいけにえを献げることが定められているが、それもまた十字架上のイエスの死の意味を教えるものとなる。
- イザヤ61章はイエスの宣教について預言している。
イザヤ 61:1
主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
主イエスが世の光であることは、
イザヤ 42:6
主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び/あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として/あなたを形づくり、あなたを立てた。イザヤ 49:6
こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。
- 神は聖なる神である。人間が犯した罪をないかのように扱うことはできない。人間が罪を犯した場合、それを裁かずにはおかない。律法はそれを破る者への神の裁きを前提にしている。人間の罪を贖い、人間に罪の赦しを与え、人間との和解を成し遂げるために、神は御子を贖いのいけにえとした。神は律法を全うして、罪を裁いたことになる。言うまでもなくイエスは律法に背くことはなく、罪を犯したことがない。だから贖いのいけにえとなることができた。
- こうしてみると、イエスによる救いの業は、旧約なくして理解することができないし、イエスによる救いの業は旧約の実現と考えることができる。イエスは「律法や預言者」を廃止するためではなく、完成するためにおいでになった。
- キリスト教会の歴史の中で、旧約聖書は必要ないと主張した人たちがいる。それは間違いである。旧約聖書がなければ、イエス・キリストによる救いの意味を知ることはできない。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>私たちを救うためにおいでになった。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>旧約聖書に救い主がいかなる方か、何をなす方かが書かれている。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。今日は旧約聖書を調べ、主イエスの働きについて言及している箇所を少し探しました。主イエスが、どのような方で何をしてくださる方なのかを知ることは楽しく、またうれしくもありました。
- 主イエスのことを証しする旧約聖書の箇所をもっと知りたいと思いました。時間を取って調べたいと思います。導いてください。
☆与えられた導き
- 主イエスを指し示す旧約聖書の箇所を調べる