ローマ 6章11節 「信じる」と「考える」
2023年8月25日
(内容)
- このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
(黙想)
- 恵みを受けるために罪を犯そうではないか、と福音を嘲る人の言葉に対して、私たちは罪に対して死に、罪の中に留まることができるはずがないとパウロは語り、そのことを論証してきた。
- バプテスマを受けた信仰者はキリストに結ばれ、罪の奴隷から解放された。そしてキリスト者は恵みの支配の中を生きる、新しい命に生きることが説明されていた。
- 11節でパウロは、「考えなさい」という。信じて歩めと言わず、考えなさいと言う。
- 私たちは時に「それは信じられない」と言って、ある事柄を信じることを拒むことがある。パウロは、信じられないからと言って拒むのではなく、それはもしかしたら正しいかもしれないので、それが正しいと考えて生きてみたらと勧める。
- ある事柄が真理であるか否かは、自分が信じられるか否かで、決まるわけではない。人間は何が真理かを判定する権威をもってはいない。自分が信じられないことでも、それが真理であることはある。世の人々は神を信じない。神はおられる、これは真理だと聖書は言う。
- 自分が信じられないからと言って拒むのは、傲慢である。信じられない時は、それは正しいのかも知れないと考えて歩むことが勧められる。そうしているうちに、正しいか否かがわかってくる。
- 信じるとは極めて理性的なことであると知る。真理の前に謙遜になるのである。
- 自分が出会ったある人が信頼できる人かどうか、出会ったその時に分かるわけではない。しかし関わりをもっていけば、信頼できる人かどうか、段々わかってくる。聖書に書かれていることも同じである。真理と考えて生きていくとき、真理であるかどうかは分かる。聖書が語る事柄には、謙遜になることが大切である。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>聖書が教えることを真理と考えて生きること。
- <勧め>パウロは、キリスト者は罪の中を生きることができないことを論証した。罪に対して死んで、神に対して生きていることを覚えたい。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日は信仰に生きることは極めて理性的な一面のあることをあらためて知りました。信じて生きるとは、ある意味、賭けです。ある事柄が真理であると賭けて生きることだからです。だから信じられなければ、信じて進むことはできません。しかし今日の聖書でパウロは、真理と信じることができなくても、真理と「考えて」歩めと教えています。信じられないから拒むのではなく、もしかしたら真理かも知れないと謙遜に考え、真理だと考えて生きていくことを勧めます。真理と考えて歩む時、それが真理か否か分かるので、まずは真理と考えて歩む、大切なことだと思います。真理の前に謙遜になることの大切さを知ります。信じられないから信じないという態度は、大切なものを失うかもしれませんね。
- 私の場合は、聖書が語る終末の事柄が課題です。聖書が語る終末の事柄を絵空事とするのか、真理とするのかです。人間の理性で考えて結論が出る問題ではありません。だから聖書が語ることを真理と考えて歩むこととします。終末の時に起きると聖書が告げていることを楽しみとします。どんなことが起きると語られているのか、それを列挙したいと思います。
☆与えられた導き
- 終末に起きることを列挙し、楽しみとする。