ローマ 6章1~2節 罪に対して死んだ私たち
2023年6月9日
(内容)
- 罪に対して死んだ私たちは罪の中に生きることはできない。
(黙想)
- パウロは、5章でキリストによる赦しの恵みはすばらしいと書いた。そこで罪の赦しの恵みを得るために罪を犯そうではないか、とひねくれたことを言う人がいるかもしれないと想定したパウロは、キリスト者は、罪の中に生きることはできない、と自ら罪を犯すような生き方はしないと断言する。罪に支配されたような生き方はできないと語り、その理由として、私たちは罪に対して死んでいるからと語る。
- 罪に対して死んでいる、これはどういうことか。3節以下でパウロは、キリスト者は洗礼を受けキリストに結ばれ、キリストの死と復活にあずかると書き、キリストが罪に対して死んだので、キリスト者も罪に対して死んだ者であると書いている。
- この場合の罪とは、罪を犯すように働きかける「力」としての罪である。神の戒めが「むさぼるな」と教えれば、むさぼりたいとの思いを起こさせるのが、力としての罪である。
- その罪に対して私たちは死んだ。死んだ私たちに罪は働きかけることはできない。死んだ人に何をしても反応は返ってこない。つまり罪は、わたしに何の力も及ぼすことがない、ということである。死んでいる人に罪を犯すように働きかけても意味がない。死んだ人はもう動かないのである。
- しかしキリスト者の現実として、罪へと誘う力は厳然とある。これをどう理解するのか。
- 信仰とは神の約束を信じることである。神の約束はすぐに実現するとは限らない。だから約束の実現を信じて、それを目指して信仰者は歩む。アブラハムは子どもの誕生まで25年約束を信じ続けた。モーセは、イスラエルの民のエジプトからの解放を信じてエジプト王との交渉を重ねた。そして神の力による解放が実現した。神の約束が実現した。
- 罪に対して死んだ、罪の力の働きかけはなくなったとの約束は、キリストが死んだ時点で実現している。キリスト者がこれを信じ、わが身において実現させていけばよいのである。以前は、罪の力に負けて罪を犯していた。しかし今、キリスト結ばれている今、その罪の力はキリストによって無力化されていると信じ、罪の誘いに戦うことが大切となる。そうすれば勝利に導かれる。罪の力がキリスト者にとって無力化されていることが体験される。
- このような信仰的現実があるので、罪を犯し赦しの恵みを得ていこうというのは、信仰の歩みとしては間違っていることになる。信仰者は、罪と戦い、罪から解放されていることを証ししていくことになる。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>罪に対して死んでいることを理解し、罪の中にいるような生き方はしないこと。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、大切な聖書箇所を読みました。感謝です。キリストがただ一度罪に対して死んだとパウロは10節で語ります。これがどういうことなのか、理解したいと思います。思いめぐらします。導いてください。
☆与えられた導き
- キリストがただ一度罪に対して死んだことを思いめぐらし、理解に努める。