第一コリント 9章1~12節
2020年10月30日
(内容)
- パウロはキリスト者は偶像の肉を食べる自由があるが、良心の弱い人のためにその自由を使わないことを8章で語った。パウロはそのこととの関連で自分が使徒として自由であること、しかし使徒としての自分の権利を使っていないことを語る。
(黙想)
- この9章でパウロは使徒としての自分について語っているが、8章との関連はある。キリスト者は自由であるが、時にその自由を制限することがある。キリスト者は偶像の肉を食べる自由があるが、キリスト者が偶像の肉を食べるのを見てつまずく他のキリスト者がいるなら、その人をつまずかせないために食べる自由を使わずに食べない。愛のほうが自由より優先する。
- そしてパウロは、9章で自分は使徒であり自由であることを告げ、さらに使徒としての権利を使っていないと語る。
- 3節によるとコリント教会にはパウロを批判する人たちがいたらしい。パウロが使徒として持っている権利を使わないので、パウロは本当に使徒なのかと疑われたと思われる。パウロは「キリストの福音を少しでも妨げてはならない」(12節)との理由で使徒としての権利、自由を使っていない。
- パウロは自分が持っている自由・権利を抑制しており、偶像の肉を食べないという忠告は、パウロの実践に裏付けられた忠告でもある。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>信仰者として与えられた自由に生きることは大切である。
- <教え>その自由を、さらに大きな目的のために用いないこともある。
- <模範>パウロは、自分が語る教えに生きている。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、異教社会の中にあってキリスト者としてどう振る舞ったらよいか、が問題になることがあります。特に葬儀に出るとき、仏式の葬儀に参加した場合、他の人と同じように振る舞っていいのか、迷うことがあり、どうしたらよいのかとの相談を受けたことがありました。故人を偲び、遺族の慰めを心の中で祈り、所作については、他の人と同じようにしてさし支えないと何度も答えた覚えがあります。また私自身そのように振る舞ってきました。他のキリスト者をつまずかせるようなことはなかったと思っています。
- 今日の箇所を読んで、パウロは、自分の体験を一つの証しとして語り、自分が教える教えを確かなものとしていることを読んで、すばらしいと思いました。ただ教えるだけではなく、身をもって教えることは大切だと思います。私自身もそうありたいと願います。
- 天の父なる神さま、私は今ブログで発信をしていますが、自分の証しを添えて語ることの大切さを教えられました。このことを心がけます。また今教会の機関誌に文章を寄せることにしていますが、ここでも証しを添えて書くことにいたいと思います。
☆与えられた導き
- 語るときには証しを添えること。