マタイ福音書 6章25~34節 神の国と神の義
2024年5月13日
(内容)
- 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。キリスト者が追い求めるべきものは、神の国と神の義であると教えられる。
(黙想)
- 食べ物や着るもののことで思い煩うなと教えられた。天の父は、私たちが生きていくのに必要なものはご存じであり、「神の国と神の義」を求めるなら、必要なものは与えられるとイエスは教えられた。神の国と神の義とは何か。まず神の国。
マタイ 12:28
しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。マタイ 4:17
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
- 天の国は神の国と同じ意味と考えてよい。イエスは天の国が近づいたことを告げる。あなたたちの所に来ているとも告げる。神の国を求めるとは、神の国、つまり神の御支配を求めること、神の御支配の下に生きることを求めること、と言える。神はどこか遠くにおられるのではない。神は私たちと共におられ、神の御支配の中を私たちは生きることができる。
- 神の義とは何か。マタイ福音書では「神の義」という言葉が使われているのはこの箇所だけである。「義」という言葉が使われているのは、5章である。
「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる」(5:6)。
「義のために迫害される人々は幸いである。天国はその人たちのものである」(5:10)。
マタイ 21:32
なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。
- 5章で、どんな人が幸いなのかが語られる。そもそも山上の説教は、イエスを信じる者の生き方が教えられている。とすれば、この幸いな人は、キリスト者のことである。キリスト者の側面が語られていると言える。キリスト者は心貧しく、それゆえ悲しむ人であり、柔和な人であり、義に渇く人である。
- 義に渇く人は満たされるとある。義とは何か。パウロは、イエス・キリストを信じる者は義とされると教える。キリスト者は神の前に義とされて生きるとパウロは教える。キリスト者は神との正しい関係の中に生きることを目指している。
- イエスもまた、神との正しい関係に生きるべきことを教えているのではないか。人は罪を犯し、神との正しい関係を失う。
- 神との正しい関係は、自分の力で獲得はできない。イエス・キリストを信じることによって、恵みによって義とされる。そしてキリスト者は、神との正しい関係の中に生きる努力をする。
- キリスト者は、神と向き合って、神との交わりに生きるのである。神との正しい関係に身を置くことが大切である。神を畏れ敬い、神に従順に生きることが大切となる。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>神の国と神の義を求めること
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、神の義を求めなさいと教えられました。キリスト者はイエス・キリストを信じる信仰のゆえに、義とされました。あなたの前に義とされたものとして、あなたと向き合い、あなたとの交わりに生きるのがキリスト者です。神の義を求めるとは、あなたとの交わりに生きること、理解します。でも私たちは自己中心的に生きる傾向があります。あなたとの交わりに生きるのに不十分なところがあります。その足りないところを埋めるべく、義に飢え渇く者としてください。
- あなたとの交わりに生きることを願い、生きる者となります。私にとっては聖書を読み、思いめぐらし、あなたの御心に思いを向けることによって、神の義を求めています。でも足りないところもあると思います。足りない点を教えてください。
☆与えられた導き
- 神との正しい関係に生きることにおいて、足りない点があるはずなので、教えてくださいと祈る。