ローマ 3章25~26節 義なる神
2022年10月26日
(内容)
- イエス・キリストを贖いの犠牲として立て、イエス・キリストを信じる者を義とする神は、ご自身が義なる神であることを示そうともされた。
(黙想)
- 25節で、神は今まで人が犯した罪を見逃してとある。今まで見逃してきたが今や、神はキリストを立てて罪の贖いのいけにえとしたとパウロは語る。
- 神が造られた人間は罪を犯している。人間が罪を犯すことは人間を造るときに神が承知していたとするなら、神は人間を罪から救う道を用意していることになる。承知していないとするなら、人間の創造は神の大失敗となる。神は人間を罪から救う道を創造の最初から用意しておられた。神は人間を救う計画を持っておられた。その計画のゆえに、神は今まで人が犯した罪を見逃していたとパウロは言う。
- どういうことか。ある人たちは、神が罪に対して怒り罰する神なら、人が罪を犯すつど罰するべきだと言う。交通違反を取り締まる警官は違反が行われたら見逃してはいけない。恣意的に罰したり罰しなかったりしてはいけない。交通違反を目撃したら罰しなければならない。そうでないと公平とは言えなくなる。
- 旧約聖書を読むと、神はイスラエルの民を罰したり、罰しなかったりしている。人が犯す罪をいちいち罰してはいない。それは一貫性がないことになる。悪く言えば気まぐれに神は罪に対して怒っているようにも見える。
- イスラエルの歴史は、人間が神の前に罪を犯す存在であることを明らかにする歴史であった。神の民としてのイスラエルの民が罪を犯したとき、神はご自身の計画に基づき、罪を罰した。決してイスラエルの民の罪を気まぐれに罰したのではない。気まぐれにある時は罰し、ある時は見逃すことをしたわけではない。必要に応じて罰している。また預言者を通して、罪を悔い改めるように民に語っている。
- しかし民が犯した罪すべてを神は罰したわけではない。見逃した罪もある。神は天罰てきめんという形で罪を裁き、罪を犯さないように警告する方ではなかった。もうしそうしたら、それはただ神を恐れる民を生み出すだけである。
- 神には人間を罪から救うための計画があった。その計画の中で、神は救い主、メシアを送る計画があり、その時が今や来たのである。そして神はご自身が一貫性に欠けているわけではなく、今まで罪を見逃してきたことには理由があり、ご自身が義なる神であることに変わりは無いことを示されたと25~26節でパウロは語る。神は人間の罪に対して、完全な解決方法をイエス・キリストにおいて実現するのである。
- 神は今や、イエス・キリストにおいて人間が犯す罪すべてに対する裁きを行う。神は罪を憎み、罪を裁く方であることが明らかにし、神が御自分が正しい方であることを示された。
- 神の義、神の正しさは、ただ罪を罰するだけにあるのではない。神の正しさは、民を罪から救うことにある。法律のように罪を犯す者を罰するだけのお方ではない。罪を犯す者が罪を犯さない者へと回復するように救う、そこに神の正しさがある。つまり神の正しさの中には愛がある。
- 礼拝の説教で、信仰によって義とされることはよく語られるが、神がご自身の正しさを示されたことはあまり語られない。パウロは、神の愛を強調している。イエス・キリストによる救いは、罪の赦しだけではなく、罪を犯す者が罪を犯さない者に回復するように救う救いである。そしてその救いは、律法を満たす結果を生み出す。
- 信仰によって罪の赦しを与えることは恵みによる赦しであるが、ある人はこれを「甘やかし」とみるかも知れない。だから6章で赦しの恵みを得るためにさらに罪を犯そうと語る人が生じることをパウロは予想している。また積極的に罪を犯そうとは言わなくても、罪赦されて感謝と言いつつ、罪を犯さないようにする努力が見られないこともある。
- 神の正しさは愛のある正しさであり、罪からの救いは、赦しにとどまらず、罪を犯さない者へと回復させる救いであること、それは律法を全うすることにつながることをパウロは主張したいのではないか。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>神はご自分が義なる方であることを示す方。<御父>御父の正しさは、愛のある正しさである。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>神の救いは赦しにとどまらず、私たちを罪から解放する救いであることを受けとめること。神は赦すだけではなく、罪人の再生を願う方である。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、あなたはイエス・キリストにおいて、ご自身が義なる方であることを示されました。罪を赦すだけではなく、罪からの自由、解放を与えるべく、イエス・キリストを罪の贖いのためのいけにえとされました。そこにあなたの愛があります。あなたの義は、愛をもつ義です。
- あらためてイエス・キリストの十字架の意義について考えさせられます。氷山の一角という言葉があります。氷の塊が海に浮かんでいるとき、水面上に見えるのは、その塊の一部であり、水面下には見えない塊の大きな部分があります。罪の赦しは、福音という氷の塊の水面上に見える部分であり、罪からの自由、解放をもたらす福音は水面下にあって見えにくく、説教でもなかなか語られないように思います。福音の豊かさを伝えたいとの思いが私にはあります。
- そのためにブログを書いていますが、ブログを継続的に続けることができるように、福音の豊かさを伝えることができるように導いてください。あなたの導きを祈りつつブログに取り組んでいきます。
☆与えられた導き
- 福音の豊かさを伝えることができるように祈る。