マルコ福音書 10章13~16節 子どもを祝福するイエス
2022年8月17日
(内容)
- 人々は子供たちをイエスのもとに連れてきた。祝福してもらうためである。しかし弟子たちは叱った。イエスは弟子たちに対して憤り、子供たちを祝福した。
(黙想)
- 人々が子供を祝福してもらうためにイエスのもとに来た。人々はイエスを教師とみて、祝福を祈ってもらおうとした。これは自然なことだ。
- しかし弟子たちはその人たちを叱ったとある。なぜ叱ったのか。おそらくイエスの働きが邪魔されると思ったのではないか。人々が病人や悪霊にとりつかれた人を連れてきた時、弟子たちは叱ることはなかった。
- 子供を祝福することは弟子たちの目に些細なことに見えたのかも知れない。あるいは子供という存在を軽く見ていたのかも知れない。
- するとイエスは弟子たちに憤ったとある。これは激しい態度である。子供たちがくるのを妨げてはならないという。なぜか。神の国はこのような者たちのものであると語られた。さらに子どものように神の国を受け入れる人でなければ、神の国に入れないと言われた。子どもは大切な存在なのだ。
- イエスは人々を神の国に招かれる方である。イエスは、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語り、活動を始めた。子どもへの祝福、それは子どもを神の国に招く行為に等しいとイエスは思われたのではないか。
- そして「子供のように神の国を受け入れる人でなければ決してそこに入ることはできない」。「子供のように」とはどういうことか。素直に信じ、受け入れるということか。大人は疑う。素直になれないことがある。
- この出来事は、マルコ、ルカ福音書にも書かれている。文脈の中で、どのような位置を占めているのか。どの福音書も、この後の出来事として、永遠の命を受け継ぐにはどうしたらよいのかとイエスに尋ねる人の話が書かれている。その人は、イエスの言葉を聞いて悲しみながら去ったとある。「永遠の命を受け継ぐ」とは、神の国に入ると同じと考えると、子供のように素直になればよいが、素直になれない大人がいる。さらに言えば、自分の努力で神の国に入ることができるとして、子どもはそのような努力はできない。子どもが神の国に入ることができるのは、恵みによる。
- 前の段落では、イエスを試そうとする人が登場している。
- 子供のように神の国を受け入れること、素直な信仰をイエスが喜ばれていることが分かる。素直な信仰とは聞いて信じる信仰。恵みを頼みとする信仰である。
- 大人は色んなことに心を遣い、素直に信じることができなくなる。信仰は聞くことから始まるとパウロは述べた。子供は大人が語ることを聞いて素直に信じる。素直に信じることを大切にしたい。
- また子供を受け入れることも大切にしたい。子供も一人の人間として人格を持っている。子供だからと軽んじることはあってはならない。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>人々を神の国に招く方。イエスのもとに行く、それは神の国を求めることである。
- <御子>子供を受け入れる方。子供を軽んじることはしない方。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>素直に信じること
- <警告>子供を軽んじない。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。主イエスが子供たちを慈しみの目で見ておられることを思います。子供たちを神の国に招いておられることを思います。
- 幼子と言えば、私には小さな双子の孫がいます。彼女たちがあなたを信じ、神の国に生きる者となって欲しいとあらためて思います。彼女たちの人生に神さまの祝福の豊かにあるように、信仰に導かれるように祈りたいと思いました。健やかに育つことを祈ってきましたが、信仰への導きを祈り続けたいと思います。
☆与えられた導き
- 孫娘のために祈る