ローマ 3章24節 キリストによる贖い

2022年10月14日

(内容)

  • イエス・キリストによる贖いの業に基づき、人は神の恵みにより、無償で義とされる。

(黙想)

  • 22節で、人はイエス・キリストを信じることにより神の義が与えられる、つまり義とされると書かれていた。ここでは、義とされる根拠としての救いの出来事、キリストの贖いのわざが述べられる。この贖いの業を信じる者は義とされる。
  • 「贖う」という言葉には二つの意味があるとされる。一つは、罪に対する神の怒りをなだめるとの意味。今ひとつは、買い取る、との意味。罪、悪魔に支配されていたものを神のものにするとの意味。罪から自由にすることを意味する。
  • キリストの犠牲はなぜ、このような贖う力があるのか。なぜ、キリストの犠牲を信じる者が義とされるのか。それは、十字架の上で犠牲となったのは、一人の人間であるが同時に神である方だったから。そこにキリストの犠牲が特別な理由がある。
  • 神が人となり、人間を救うための犠牲となって死んだ。これは貴い犠牲である。すべての人間のすべての罪を贖うことができる犠牲である。そんな犠牲がありえるのかと思う。
  • 罪を犯し罪の赦しを得るために贖いの犠牲をささげるのは、本来、罪を犯した者である。人間は赦してもらう立場であり、神は赦す立場である。赦す立場の神が贖いの犠牲をささげるのは理屈に合わない。なぜ理屈に合わないことを神はしたのか。そこには人間を罪から救う神の計画がある。そこまでして神はなぜ人間を救うのか。
  • 神が世界を創造し人間を創造したと考えるなら、人間が罪を犯し、それが神の怒りをもたらしているとするなら、人間を創造したことは神の失敗になるのか。それともこうなることはあらかじめ予測されたことなのか。全能の神が失敗をするはずはない。とすれば人間が罪を犯すことは神の計画に織り込み済みとなる。
  • 現代でも人間の罪が世界に混乱をもたらしている。人間が犯す罪が人々を苦しめる。人間は自ら罪を犯し、また苦しんでいる。歴史の中で人類は教育を行ってきた。道徳、倫理が教えられてきた。それは罪を防ぐことはできない。人類は罪を犯し続けている。
  • 創世記にはノアの洪水の物語がある。人間が罪を犯しているので、神は洪水で人類を滅ぼしたという物語である。ただしノアの家族は救っており、洪水の後ノアから、人類は増え広がっている。この時神は、二度と洪水で人類を滅ぼすことはしないと語っている。
  • 罪を犯す人類、混乱に満ちている世界。神はなぜこのような人類を滅ぼさず、救おうとするのか。聖書は、人間に対する神の愛と語る。罪を犯し、世に混乱をもたらすような存在であるが、なお神は人間を大切な存在と見てくださる。不出来な子を徹底的に大切な子どもと見る親はどれほどいるのかわからない。昔は子どもを勘当するということがあった。縁を切るのである。神は決して人間と縁を切らない。神は人間を救おうとする。どのように救うのか。
  • 神には一つの方針がある。人間の自由を制限しないことである。人間に自由な意志を与えている。神は、人間が罪を犯さないように強制的に人間を造り変えることはしない。神を信じるも信じないも人間の自由。人間に自由を与えながら人間を救おうとする神。
  • そのためには、神が人となり、罪を贖う犠牲となることが必要だった。他には人間を救う方法はなかったのか。それはわからない。でも神が選んだのは、神が人となり罪を贖う犠牲となる方法。そもそも神が人となるということが理解を超えている。しかもその人間は死ぬのである。神が死ぬのである。でもそこに人間を救う神のわざがあるという。救いがあるという。
  • 神は人間の救いということで何を考えているのか、何が人間の救いなのか。それを見極めることが大切だ。ロマ書はそれを伝えようとしている。
  • 人は神の恵みにより無償で義とされる。そのために神が人となり、しかも贖いの犠牲となって死ぬのである。しかも殺されるのである。人間を救うはずの救い主が死んでしまう、理解しにくいことである。しかしそこに神の救いの道がある。それしか罪を犯す人間の心を変える方法がないのだ。
  • 理解できないことは多い。確かなことは自分は罪を犯す人間であること、救いを必要としていること、キリストにより救われていること。神は私を神との交わりに招き、私を生かしておられるということ。そしてキリストを宣べ伝える使命を与えてくださったこと。
  • 神は罪を犯してきた者を義と認める。しかも無償で。人間には義と認められる資格はないから、それは恵みである。義とされた者として生きるようにとの神の大いなる招きがある。神を崇め、神を畏れ敬い、神を愛し、神に従って生きるように、しかも神に信頼し、神に助けを求めて生きるようにとの招き。

これを受け入れる、それが信仰の決断。信仰の決断は1回切りのものではなく、日々この決断に生きるということ。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>キリストによる贖いという救いの出来事を起こした方。
  • <御父>罪を犯す者を恵みによって無償で義とする方。
  • <御子>贖いの犠牲となられた方
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>イエス・キリストを信じること。
  • <教え>イエス・キリストを信じる者は義とされていること。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、イエス・キリストによる救いを考えようとするとわたしの理解を超えたことであることを痛感します。そもそも神が人となること、イエスという人間が神であるということが理解できません。これは信ずべきことですね。理屈では説明できることではないことを思います。しかし人間には理屈で納得したいという面もあります。
  • キリストあるいは福音を宣べ伝えることの難しさとこの理解しがたさは関連しているように思います。神学的には、神が人となることは受肉として説明され、イエスの死は贖いの死であり、それは人間を罪から救うものである説明されていきます。教理として説明されます。教理として説明が尽くされるからといって、すべてが納得できるわけではありません。しかし、聖霊の助けによって信じることができます。信じるという行為は、理解を超えたことを真理とする行為です。私は信じる者でありたいと願います。同時に理解する者でありたいです。
  • 今日は、気持ちを整理させたいので、ロイドジョンズ牧師のこの聖書箇所の説教を読みたいと思います。
☆与えられた導き
  • ロイドジョンズ牧師の説教を読む