マルコ福音書 12章41~44節 献げる心

2022年10月17日

(内容)

  • 主イエスは群衆が賽銭箱に献金する様子を見ておられた。金持ち、貧しいやもめが献げるのをご覧になり、このやもめこそ、誰よりも沢山入れたと弟子たちに話された。

(黙想)

  • 主イエスは献金を献げることについて、教えを語っているわけではない。金持ちの献金と貧しいやもめの献金を見て、やもめは誰よりも沢山献金したと語っただけである。
  • やもめが献げたレプトン銅貨二枚は、一デナリの64分の一。一デナリは労働者の一日分の賃金。やもめが献げたのはその64分の一となる。それが生活費全部というのだから、本当に貧しいやもめである。
  • 金持ちは多額の献金をした。やもめの献金は額としてはわずかである。しかしイエスの目にやもめが一番沢山献金したという。生活費全部を献げたということは、生活に差し障りが生じる可能性を意味する。普通は、生活に支障が出ない程度に献金をする。金持ちたちが多額の献金をしたかも知れないが、生活が困ることはない。有り余る中からささげている。イエスは金持ちの献金を批判しているわけではない。
  • もし弟子たちが、金持ちの献金を見て驚くのなら、それよりもっと驚くべきことはやもめの献金であるとイエスは言われたのか。弟子たちは金持ちの多額の献金に目を留めて驚くとして、はたしてやもめの献金については、目を向けていたのか。どうせわずかな献金と考え、見向きもしなかったかも知れない。しかしイエスは目に留めていた。
  • 人の見るところと神が見ることは違う。神がサムエルに語った言葉を思い出す。「人は目に映ることを見るが、主は心によってみる」(サムエル記上16:7)。
  • 現実的には、神への献金は人それぞれである。生活費全部を献げることが推奨されるわけではない。誰が一番献げたのかというような、比較をすることも意味がないし、意味を持たせてはならない。人それぞれが神に献げるのであって、他人の献金額について人がとやかく言う必要はない。余計なお世話である。
  • やもめは生活費全部を献げた。なぜか。切なる願いがあって、願いをかなえてもらうために、生活費全部を献げたのか。理由は分からない。その献金が自分の生活に破綻をもたらすとは考えていないことは確かである。生活は何とかなると経験的に知っているのだろう。
  • この段落から何をメッセージとして聞き取ったらよいのだろうか。
    ①自分はどんな心で神に献げているのか。
    ②神はやもめのささやかな献金にさえ目を留めてくださる方である。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>やもめのわずかな献金を精一杯献げたと認める方。やもめの心を知ってくださる方。
☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>自分はどんな思いで神にささげものをしているのかを考えてみる

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝です。主イエスがやもめの献金に目を留め、彼女が精一杯献げているのをご覧になっています。主イエスの眼差しは小さな者へも注がれていると教えられました。
  • 老いて人生の夕暮れを歩んでいると、色々な思いが交錯します。それらは心を励ますよりも、落ち込ませる方向に導きます。注意しなければなりません。今朝賛美した讃美歌で「生くるも死ぬるも、ただ主を思う」とありました。主イエスは、やもめにも心を留めてくださる方であり、私をも心に留めてくださる方です。「ただ主を思う」ことに集中してみたいと思いました。
☆与えられた導き
  • 「主を思う」ことに集中してみる。
    ~~~~~
    自分がどんな時も主の顧みのあることを信じよう。
    私のためにも十字架について下さったのだから。