マルコ福音書 13章1~13節 主の証人として生きる

2022年10月19日

(内容)

  • 弟子たちが神殿のすばらしさを語ったとき、イエスは、神殿が崩壊する時がくると語り、さらに世の終わりの来ることを語り始めた。

(黙想)

  • 主イエスと弟子たちが神殿の境内を出て行こうとした。その時弟子の一人が神殿のすばらしさをたたえた。その弟子は恐らくガリラヤ出身でエルサレム神殿の荘厳さ、素晴らしさに感動したと思われる。しかしイエスは、神殿はいつの日にか崩壊すると語られた。聞いた弟子たちは驚いたことと思う。
  • エルサレムにある神殿は、イスラエルのソロモン王が建てた。紀元前10世紀頃である。しかしバビロン帝国がイスラエルを攻撃し、エルサレムを攻撃したとき、神殿は壊された。イエスの時代の神殿は、再建されたものある。
  • 弟子たちがイエスにいつ神殿の崩壊が起きるのかを尋るとイエスは人の子が雲に乗ってくることを語る。それは世の終わりの時である。世の終わりまで起こるべきことがあり、それをイエスは語る。
  • イエスの名を名乗る者が現れ、多くの人を惑わす。さらに戦争が起こり、また地震や飢饉が起こるが、まだ世の終わりではない。これは産みの苦しみの始まりという。
  • 次にイエスの弟子たちは捕らえられ、弁明するときが来るが、この時は聖霊により語るべき言葉が与えられるので心配する必要はないと語る。信仰者は家族からも憎まれるときが来る。しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われると主イエスは語る。これらのことは世の終わりが来るまでに起こることである。
  • イエスがこの世界においでになって、2000年以上が経過した。主イエスが語ったことは皆起きていると言ってよい。戦争、地震、飢饉、キリスト者への迫害、キリスト者が家族から憎まれることなど、すでに起きている。しかしまだ世の終わりは来ていない。
  • マルコ福音書は、雲に乗ってやってきた人の子が、裁きを行うことは明示的には語られていない。裁きを予想させることをイエスは語っている(マルコ8:38)。
  • 世の終わりという言葉を聞いて弟子たちはどう思ったのか。それはわからない。教会は、イエス・キリストの再臨、最後の審判を語ってきた。現代のキリスト者が世の終わり、神の裁きを信じることは簡単ではない。
  • 他方で科学者は宇宙の終わりを語る。本当のところはわからないが、宇宙には始まりがあり、終わりがあると考える人がいる。宇宙の始まり、世界の始まりは聖書が語っていることであり、宇宙の終わり、世界の終わりも簡単には否定できないだろう。
  • ただ終末は本当に来るのか否か、と考え出したら切りがない。キリスト者としては信じる、あるいは終末はあると考えて生きることが賢明である。さらに言えば、終末は世界を創造した神の計画の完成の時である。終末に何が起きるのかを聖書が伝えることは大切だ。この神の計画に参加する歩みをすることは大切だと思う。
  • 終末を思うことは、自分の今の生き方を考えることでもある。終末に備えることは、神を畏れることにつながる。そして僕は、人生の夕暮れを生きており、やがて人生の終わりを迎える。個人の人生の終わりは現実的である。しかしキリスト者の希望は終末の到来、そして神の国の完成にあることも確かである。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>イエスは世の終わりが来るまでに起きることを語る方。
  • <御子>歴史の中で、戦争、飢饉、地震が起きることはイエスはご存じである。キリスト者が迫害され、キリストを証しするときが与えられることも言っている。証しの言葉は聖霊が与えてくれると約束された。
☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>キリストの証人として生きること。聖霊の導きを信じて生きる。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、主イエスは世の終わりのあることを語られました。そしてそこに至るまで、何が起きるかを話されました。私は主イエスの時代から2000年を経た時代に生きています。主イエスが語られたことをすでに見聞きしています。戦争、飢饉、地震、迫害、家族での争い、これらはいつの世にもあることを思います。
  • 私の生涯は短いものです。主の再臨が私が生きている間に起こるのか、分かりません。主の再臨がいつ起きてもいいように、主イエスの証し人として生きていきたいです。私は老いました。この先どうなるか分かりませんが、主イエスの証人として生かしてくださるように切に願います。勿論、私も主の証人として生きる覚悟です。導いてください。今日も主の証人として目を見張るようなことをするわけではなく、御言葉によって生きる幸いを感謝するものです。このようなディボーションと出会わせてくださったことを感謝します。
☆与えられた導き
  • デボーションと出会わせてくださったことを感謝する。