第二コリント 1章12~14節 恵みに生かされた自分を誇る

2021年5月24日

(内容)

  • パウロは、自分たちが神から受けた純真と誠実によって行動してきたことを誇りとしていると語る。またコリントの人たちに、自分たちがコリント教会を誇りとしているように、コリント教会の人たちも自分たちを誇りにするようにと語る。

(黙想)

  • パウロはコリント教会の人たちに対して、自分たちを弁明しているように思える。パウロとコリント教会がどのような関係にあるのかと考える。第二コリントはパウロがコリント教会に送った手紙が集められていると言われている。一時パウロとコリント教会の関係は悪化した。コリント教会にパウロの使徒性を疑う教師たちが来て、コリント教会は惑わされた。それに対してパウロは自分は神により召された使徒であると弁明した。その後、コリント教会との関係は回復したようである。
  • 1章のこの部分は、パウロとコリント教会の関係が回復した後に書かれた手紙であると言われている。そこでパウロは、もう一度自分たちのことをきちんと理解して欲しいと語っているように思える。
  • この箇所では、パウロは自分のことを誇っているし、コリント教会の人たちに対して、自分たちのことを誇りであることを理解するようにとも語っている。コリント一1:31では「誇る者は主を誇れ」と語っている。語ることが矛盾しているように思える。聖書の言葉は文脈を無視して、取り上げて論じてはいけない。文脈の中で考えなければならない。
  • それでは、この箇所をどう受けとめるのか。パウロは「神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきた」ことを強く訴えたいので、「誇り」という言葉を使ったのではないか。それはコリント教会の人たちに、人の言葉に惑わされず、パウロたちのことを理解して欲しいとの思いの表れかも知れない。自分が神に遣わされた者として働いていることをパウロは知って欲しいのである。それは言い換えるとパウロが語ってきたことを本当に受け入れ身につけて欲しいということでもあるだろう。
  • しかし「誇りです」と語っていることは事実。「誇り」と語るとき、そこには自負がある。自負はある意味くせ者である。間違うと高慢につながる。しかし、自負は神の召しに生きる人が持つべきものであるといえるかも知れない。なぜなら「神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきた」とパウロは語る。このように歩んでいる自分をどう思うか、である。この場合パウロの誇りは人間的な誇り、つまり自分の力を誇る誇りではなく、自分を生かす神の恵みを誇りにしていると言える。神の恵みを受ける者は、その神の恵みを誇りにしてよいのではないか。我々は、自分を誇ることを避けるあまり、神の恵みを誇るという考えは持たない傾向があると思う。
  • 他方、聞き手には色んな人がいるから、パウロは自分のことを誇っていると、パウロの誇りを人間的な誇りと受けとめる人もいるかも知れない。しかし人がどう受けとめるかを考えてしまうと、言うべきことを言えなくなることもある。
  • 主イエスの来られる日に「あなたがたにとってわたしたちが誇りであることを、十分に理解してもらいたい」。コリント教会の人たちがパウロの気持ちを理解した上で、パウロたちを誇りにするようになってほしいということである。パウロたちを誇るということは、彼らの背後に神の恵みがあることを認めることでもある。大事なことは、パウロたちの行動の背後にある神の恵みを認めることであり、それはパウロたちを理解することにつながる。その結果、パウロたちを誇りにするという結果になる。
  • 終わりの日にパウロとの出会い、パウロから導きを与えられたことを誇りとするようにと語られている。本当に導かれたのなら、終わりの日に感謝することになる。
  • 大切なことは、神の恵みに生かされることである。神から受ける純真と誠実に生きることである。人間には純真な気持ちや誠実さはある。それらの人間的なものは罪によって汚染される恐れはいつもある。神の恵みによって、清められる必要はある。
  • それでは、僕自身の行動はどうなっているのだろうか。キリスト教とは何の関係もない家族の中で育ち、大人になって洗礼を受け、牧師になった。キリストを信じることがどういうことかを知らないまま牧師となり、説教しつつ聖書を学んできた。そして何人かの人との出会いによって、キリストを信じることがどういうことかを教えられてきた。これらの出会いは、神さまの導きであり、僕は一人のキリスト者として成長してきた。そして福音を宣べ伝える務めに仕えてきた。
  • パウロは「神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきた」と語る。パウロと同じ言葉は語ることはできないが、神から与えられた出会いを無駄にせず、それを生かしてきたことは確かであり、神の恵みの下に生きてきたという告白は僕もすることができる。これは感謝であり、誇りとしてよいことと教えられる。それは終わりの日に誇りとなり感謝となる。人との出会いを通して何を学んできたのか、振り返って確認しておくことは大切と思わされる。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>人を恵みによって生かす方である。
  • <御子>終わりの日に今一度この世界においでになられる方。
☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>神の恵みを誇ることは大切と知る。自分を生かしてくれた神の恵みを知らせることも大切であると知る。
  • <模範>パウロはコリント教会の人たちのことを、主イエスが来られる終わりの日に誇りであると語る。コリント教会には色々問題があり、パウロは手紙を書いて忠告してきた。パウロは彼らを愛しており、喜んでいる。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、パウロは自分を誇りにしています。それは自分を誇ることではなく、あなたを誇ることであり、あなたを喜ぶことです。そしてこの誇り・喜びをコリントの人に共有して欲しいと願っています。自分を生かしてくれた神さまの恵みを知って欲しいとの思い、教えられます。
  • 私もあなたに導かれて牧師の務めを果たしてきました。あなたから受けた恵みを整理し、あなたをたたえたいと思います。パウロはあなたのことを「慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられるように」とたたえています。私はどのような言葉であなたをたたえるのか、一つの宿題としています。
  • パウロはあなたの恵みの下に行動してきたと書いています。私の牧師としての歩みを振り返るとき、何人かの伝道者との出会いをあなたの恵みと受けとめています。それぞれの人から何を恵みとして受けたのか、確認したいと思いました。出会いを無駄にせず、出会いから益を受けとめることができたことを私も誇りとしたいと思いました。自分を誇るということは考えてきませんでしたが、あなたの恵みを受けとめ、従うことができた自分を誇ることは、自分の力を誇るんではなく、あなたを誇ることであると受けとめます。牧師人生を導いてくださり、感謝します。
☆与えられた導き
  • 神さまの恵みにより、出会いを与えられ、学び、キリスト者として成長し、牧師としての務めを果たすことができたことを簡単にまとめ、私を生かしてくださった神をたたえる。(まとめたものをholalaのブログに書いた。以下はその抜粋)

~~~~~~~~~~
毎週の説教のために聖書を読み、説教をしながら、信仰のことを学んでいったといってもよいと思います。そんな私を信仰者として、あるいは牧師、説教者として成長させるために神さまは、何人かの人との出会いを与えてくださったと考えています。

最初に出会ったA牧師。A先生はホーリネスの信仰を持っていました。私は彼から「敬虔」ということを教えられました。辞書によれば「敬虔」は「神仏に深く帰依してうやまいつかえること」とあります。私は、素直に神さまの教えに従い、心を清く保つことと受けとめました。A牧師から教えられてアンドリュー・マーレーの本をいくつも読みました。

次に出会ったB牧師。B先生からは教会とは何かを考え、教会を大切にすることを教えられました。そして改革派の信仰を学びました。数名の牧師との定期的な勉強会を開いてくださり学びました。熊野義孝という神学者の本でキリスト教の教義を学んだことは感謝でした。私の神学的な立場が明確になりました。私は宗教改革者のカルヴァンの本が好きです。

次に出会ったのはC牧師。C牧師は韓国の牧師です。B先生ともう一人の先生と一緒に、一週間韓国を訪問し、韓国の教会生活を見てきました。C牧師の話や、韓国の教会を見学し、私は祈りの大切さと聖霊に導かれる歩みの必要を知らされました。帰国後、聖霊についての個人的な勉強が始まりました。これは何年も続きました。

次に出会ったのは、D牧師。個人的に知り合ったわけではなく、超教派の集会で知った方です。私は聖書を読んで生きること、御言葉に生きること、聖書を生きることを学びました。聖書を生きる方法をディボーションと呼び、これを私は学び、今に至るまで続けています。

次に出会ったのはE牧師。私はこのE牧師から聖書を神の言葉として読み、聖書に生きることを学びました。E牧師の講演のテープを何本も聞き、テープ起こしをして学んだことを思い出します。私は自分の物事の考え方の土台を聖書にすることができました。自分が身につけてきた思想、常識、考え方を聖書に照らして、聖書に基づいて物事を考えるようになりました。

次に出会ったのはF牧師。信仰を育てることを学びました。自分自身の信仰を育てると同時に、牧師として、信徒の信仰の成長に仕えることを学びました。そしてこれを実践してきました。信仰者を育てることの難しさと喜びを神さまからいただきました。

次に出会ったのはG牧師。G牧師は説教塾を主宰し、私はこれに参加し、説教を学びました。近隣の牧師たちとの地域の説教塾に参加し、相互の説教を批判しながら説教の研鑽をしました。他者の説教を批判することは、批判する自分の批判そのものも批判の対象になります。他の人が自分の説教をどのように批判するのか、それを聞くのは、興味深いものがありました

以上