マタイ福音書 6章12節 罪を赦す
2024年1月22日
(内容)
- わたしたちの負い目を赦してください。私たちが自分に負い目のある人を赦したように。赦しを求める祈り。
(黙想)
- うっかりするとこの箇所は、私たちが神から罪の赦しを求めることができるのは、私たちが他者の罪を赦したからだと解釈してしまう。これは間違いである。私たちはイエス・キリストの十字架の贖いの死を信じることにより、自分の罪の赦しを得るのである。
- 5章から始まるイエスの教えは、弟子たちへの教えであって、一般の人に向けた教えではない。言い換えるとイエスの教えはキリスト者に向けられた教えである。イエスによる贖いを信じ、自分の罪の赦しを得たキリスト者に対する教えである。
- 「負い目」とある。もともとは負債を意味する。負債は返済しなければならない。そして「赦し」の意味も持つようになった。
- キリスト者には、自分に対する他者の罪を赦すことが求められている。なぜなら自分が神から赦されているからである。自分の罪は神から赦されているのに、自分は他者の罪を赦さないというのは身勝手である。
- このような身勝手な行為は、罪の赦しがどういうことか分かっていないことに原因があると思う。赦されるということがどういうことかが分かれば、赦すことができる。では赦されるとはどういうことなのか。
- 赦しの前提には自分と相手の関係性がある。信仰者は神との交わりに生きる。神は信仰者の罪を赦し、信仰者の神との交わりを継続させる。神が信仰者の罪を赦さなければ、神との交わりは失われる。つまり神に見捨てられることになる。罪を犯す人間が神との交わりに迎えられるのは、全くの恵みであって、自己の正しさのゆえではない。自己の正しさに対するこだわり、自分は正しいという思いがあると他者を赦せなくなる。赦しには、相手との関係性、つまり自分と他者との交わりの回復という意味がある。この関係性を大切にすることが赦しの根本にある。交わりを大切にするとは、相手を愛することである。愛は赦すのである。自分が神に赦され、神との交わりに招かれているから、私たちも他者を赦し、その他者との交わりを大切にする。
- 「私の負い目を赦してください」との祈りには、神との交わりに生きることを願う思いがある。自分が罪を犯し、こんな自分を交わりの相手にしたくないと神が考えても不思議ではない時、神との交わりに歩みたいから、私たちは神に赦しを求める。神が私たちを赦し、交わりを持って下さることに私たちは感謝する。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>私たちに負い目のある人を赦すこと。私たちに罪を犯した人を赦すこと。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神、私は幸いに、今個人的に赦さなければならない人はいません。感謝です。しかし世界を見れば、互いに赦すことなく戦っている人の多いことを思います。不寛容に言葉でもって相手を非難する人がいますし、憎しみをもって武力で敵とする相手を攻撃する人がいます。赦しを持って平和を追求する動きが、世にとぼしいことを思います。
- これは福音がさらに宣べ伝えられなければ実現しませんし、この歴史が続く限り、今の状態は続くかもしれません。敵意という隔ての中垣を壊すためにイエスが十字架について下さったのに、人間は心をかたくなにしたままです。
- あらためて思います。キリストの贖いの働きに対してあなたを賛美し続けます。そしてこの福音が世界の隅々にまで、宣べ伝えられ、人々が赦しに生きるようになることを祈り続けます。
☆与えられた導き、
- キリストの贖いを賛美する。讃美歌142番。
- 福音が世界中に届くよう祈り続ける。