マルコ福音書 14章27~31節 自分を知らない人間

2022年12月6日

(内容)

  • イエスは弟子たちのつまずきを予告した。するとペトロは、自分は決してつまずかないと言った。しかしイエスはペトロがイエスのことを三度知らないというと予告した。

(黙想)

  • 26節にイエスと弟子たちはオリーブ山へ出かけたとある。32節で一同がゲッセマネというところに来ると、とある。27節以降のイエスと弟子たちの会話は、オリーブ山へ行く途中での会話となる。イエスはふと立ち止まり、弟子たちにつまずきの予告をしたのか。
  • イエスは弟子たちのつまずきを予告しなくても弟子たちはイエスにつまずき、すなわち、イエスを見捨てて逃げただろう。予告することは、弟子たちがイエスを見捨てて逃げた後、自分たちが何をしたのか、はっきり自覚させることになる。自分が何者であるのかを自覚させる。
  • ペトロを初めすべての弟子たちが、イエスのことを知らないなどとは言わないと主張した。福音書が告げる成り行きでは、ペトロだけがイエスのことを知らないと言った。
  • 人は、自分のことを知らないことを教えられる。自分は何をするのかわからないのである。あることをするつもりがなくても、それをすることがある。それが人間であり、人は罪を犯す。
  • 人は自分のしたいと思う善を行わず、かえって悪を行う。それは人の内に罪が住んでいるからとパウロは語った。人は自分を過大に評価してはいけない。いつ何時、罪を犯すのかわからない。
  • しかしキリスト者としては、恵みの支配下に生きる者として、神が共にいてくださることを信じる者として、み心に従う歩みに努める。失敗したらその原因を見極めることが大切だ。自分の内に潜む弱さ、頑なさ、罪の思いなど、気づかされたことを悔い改めて神の助け、聖霊の導きを求めて歩むことが大切になる。信仰者の歩みはその繰り返しであり、その繰り返しの中で、キリストに似た者へと変えられていく。イエスの弟子として成長していく。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>弟子たちが裏切ることを知っていた。イエスは、私のこともよくご存じな方である。
☆神が私たちに求める生き方
  • <警告>自分を過大評価しないこと。思いがけない時に罪を犯す可能性を持っている者である。
  • <勧め>いつも御心に歩むことに努力する。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝します。老いを生きることは複雑です。色々なマイナスを負って生きていきます。肉体の衰えがあり、単調な日々が続き、なすべき務めがあいまいになり、生きる意味が不透明になります。信仰をもって生きていくべきことを思います。
  • 天の父なる神さま、老いという時期は、人生の終末期です。死が自分の身にいつ訪れるのかは分かりませんが、死を意識して生きる、それは寂しさを伴います。また憂うつも伴います。使徒パウロは、今すぐにでも死んでキリストと共にいることを熱望すると語っていますが、彼の心境にすぐに近づくことができるわけでもなく、中途半端な状態の中で生きています。
  • 忘れてはならないのは、どんな状態になってもあなたとの交わりに生きることと考えます。あなたからの希望に生きることです。自分の心を注ぎ出す祈りの必要を思います。あなたに自分の思いを伝える日々を過ごしたいと思います。
☆与えられた導き
  • 自分の思いを伝える祈りをする。

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祈り

天の父なる神さま
自分の心に向き合い、あなたに祈ります。
私は老人になりました。
折に触れ、自分が老人であることを教えられ、また気づきます。
またこれをしなければという役目、なすべき務めも曖昧です。
自分は確かに生きているという実感が乏しいという思いがあります。
また人生の夕暮れに近づいています。
使徒パウロのように早く死んで、主イエスのもとに行きたいという思いがあるわけではありません。
老いの時期、信仰が揺れ動くこともあります。
主イエスを知らないとは言わなくても、
気持ちは変化します。
信仰者ですから、あなたを仰いで、あなたと共に生きていきたいです。
天の父よ、今日は「わたしはよろこんで歳をとりたい」を読みます。
いつも共にいてください。
主イエスよ、導いてください。