マタイ福音書 26章31~35節 自分の弱さと向き合う
2021年3月8日
(内容)
- イエスは「今夜、あなたがたは皆わたしにつまづく」と弟子たちに告げる。しかしペトロは自分は決してつまづかないと主張する。イエスはペトロが三度自分のことを知らないと語る、と告げる。
(黙想)
- 31節。「そのとき」とあるが、いつなのか。直前の31節では、イエスは弟子たちと共にオリーブ山へ出かけたとある。36節で「ゲッセマネというところに来て」とある。ゲッセマネの園へ行く途中のどこかでイエスは弟子たちに語ったのか。
- イエスは弟子たちがつまずくことを語った。なぜ知らせたのか。ペトロは自分は決してつまずかないと語る。するとイエスは、夜明け前に三度ペトロはイエスのことを知らないと言うだろうと告げる。そしてペトロを初め他の弟子たちは、イエスを裏切るようなことは決して言わないと強い口調で語る。
- イエスはなぜ弟子たちの裏切りを語ったのか。警告の意味で語ったのか。実際にその場面になった時、弟子たちがつまずかないようにと願ったのか。イエスが捕らえられるという思いがけない事態に直面して弟子たちがつまづかないようにあらかじめ語ったのか。
- それとも弟子たちがつまずくことをイエスは承知していたと弟子たちに知らせるためにか。それは弟子たちがつまずいてもイエスは弟子たちを拒否しないことを伝えようとしたのか。弟子たちがつまずいたあと、イエスに会わせる顔がない、イエスに会う資格はないなどと自分を責めることをしないように、そのために語ったのか。イエスは弟子たちの弱さを知っていること、弱さのゆえに弟子たちを拒むことがないことを伝えようとしたのか。
- 我々は恐れに支配されやすく、自分の意志を貫くことができない弱さを持っている。そのことをイエスは知っていると考えることができる。弟子たちへの言葉は配慮の言葉である。その証拠にイエスは弟子たちに「あなたがたより先にガリラヤへ行く」と語られた。それは暗黙の内にガリラヤで会うことになると語っている。実際にイエスが葬られた墓に来た女性たちに、復活したイエスは弟子たちに「ガリラヤに行くように。そこでわたしに会うことになる」と女性たちに伝言を頼んでいる。
- 我々は自分を誇ることができない者である。自分の意志を貫くことができない存在である。そのような弱さを持つ者である。そのことをイエスは承知し、なお我々を愛し、受け入れてくださる。同時に、パウロの言葉を思い出す。「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>弟子たちの弱さを知っている。弟子たちが自分の弱さに打ち砕かれることに対して配慮をしている。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>自分の弱さを覚えること。
- <教え>自分に弱さがある故、キリストの力によって生きることを求めること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を読むことができ感謝します。私には一つの願いがあります。あなたが祈りに答えてくださったら、私はこうしたいとの祈りがあります。あなたが願いをかなえてくださったら、「こうしたい」と考えていることをやり遂げる自信があるかと言えば、自信はありません。しかしやり遂げたいのです。今日は聖書から、あなたは私たちの弱さをご存じであること、私たちはキリストの力に頼ることができることを教えられました。
- 自分の力に頼るのではなく、キリストに頼って歩むべきことを教えられ感謝です。勇気をもって、祈り続けます。
☆与えられた導き
- 一つの願いを祈り続ける。