第一テサロニケ 4章1~8節
2020年7月23日
(内容)
- パウロのテサロニケ教会の人たちに対する勧告が書かれています。基本は神に喜ばれる歩みをするということです。現在その歩みをしているので、さらに今後も続けるようにと勧めている。それは聖なる者となることであり、それが神の御心である。
(黙想)
- パウロは、主イエスに結ばれた者は神に喜ばれるために歩むべきことを教える。そして神の御心は、主イエスに結ばれた者が聖なる者となることだと教える。
- 具体的な適用として、聖なる者として結婚生活を営むことを命じる。異邦人の悪しき振る舞いを警告する。
- みだらな行いを避ける。イエスの教えに倣うなら、みだらな思いで女性を見てはいけない。異邦人のように情欲に溺れてはならないとある。現代は、欲望を駆り立てる様々な情報がある。映画、テレビ、インターネットを通して特に「映像」が目に飛び込んでくる。それらを避けなければならない。それらに心を許すことは、女性を欲望の対象としてみることにつながり、尊敬の念をもって結婚生活を営むことを妨げる。
- 神の御心は、信仰者が聖なる者となることである。それはエフェソ書にも書かれている。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(1:4)。
- 私たちを信仰者へと招く神の御心は、私たちに「聖なる生活」をさせるためである。神が私たちを信仰者にしてくださったのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をするためである。そのために神は、聖霊を信仰者の内に与えてくださっている。それ故、聖なる者と努力しないものは、神を拒むことになるという。
- 今の僕には、心から共感できる聖書箇所である。多くの信仰者の心には、聖なる者になることを勧めれば少なからぬ拒否感があることを予想する。つまり、そんなことは無理だという拒否感である。この拒否感を取り除き、人々を聖なる者を目指すように導くのは簡単なことではない。
- もしかしたら、ここには、今後の僕の使命があるのかも知れない。インターネットでの発信、また機会が与えられたらする説教、それは「聖なる者になる」ことを主題とした説教にすべきかも知れない。この拒否感は簡単には崩れない。しかし必ず崩れるとの信仰で取り組むように、神さまから言われたような気がする。
- まず「私にとって聖なる者」とはを証しとして書くことが必要と思う。また「聖なる者」をめぐって小説教を日曜に発表してもいいと思った。その前に「聖なる者」に関わる教理を確認しよう。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- <御父>信仰者が聖なる者となることは、神の御心である。
- <御父>聖なる者となるようにわれわれを招く方
- <御父>私たちが聖なる者となるために、聖霊を私たちのうちに与えてくださる方。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>聖なる者として結婚生活を営む
- <警告>「みだらな」行い、欲望を駆り立てるものをすべて避けること
- <教え>聖なる者となることを拒むことは神を拒むことになる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、「聖なる者」となるように勧める今日の聖書箇所に共感を覚えます。教会に集う多くの信仰者には、「聖なる者になる」ということへの拒否感があるように思います。つまり「それは無理です」という拒否感です。そう言わしめる信仰者の現実があるからです。それはきちんと福音が説教されてこなかったという残念な現実もあります。
- このことを思うとき、この拒否感を崩し、信仰者が聖なる者となることを目指すように働きかけること、それがあなたから与えられた私の使命のような気がしました。あなたは私の内に、一つの願い、志を起こしてくださいました。
- 一つの目標としては、小説教をブログに書きたいと思います。その前にいくつか準備があります。どのような準備をするのか、考え、実行していきたいと思います。導いてください。
☆与えられた導き
- 新たな使命に対してどんな準備をするか考える。