マルコ福音書 3章31~35節 神の御心を行う
2021年9月20日
(内容)
- 大勢の人がイエスを囲んでいる時、「ご覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを探しておられます」という者がいた。するとイエスは、神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだと答えた。
(黙想)
- 3章21節によるイエスの身内の者は、「あの男は気が変になっている」との人々の言葉を聞いて、イエスを取り押さえに来たとある。そして家族が探しているという知らせを聞いた時イエスは、神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだと答えられた。イエスはなぜ、このような答えをされたのか。
- 母、兄弟、姉妹は、血のつながりによる人と人の関係を示す言葉である。肉親とか家族という。ここでイエスは身内の者に対応しない。むしろ人々を教える一つの機会ととらえ、「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」と答えられた。これはどういう意味か。神の御心を行うことはとても大切だと語っているのか。あるいは神の御心を行う人は、イエスと特別な関係にあることが語られているのか。
- このイエスの言葉を聞いた人たちはどう思っただろうか。イエスは大勢の人に囲まれて、何か話をしていたと思われる。その時「あなたの家族が来ています」とイエスに語る人がいた。イエスの周囲にいた人もそれを聞いたと思う。イエスは人々に話すのを中断して、訪ねてきた身内の者のところへ行かなかった。すぐ行けないから「ちょっと待ってるように伝えて欲しい」とも言わなかった。神の御心を行う人こそ、私の家族なのだとイエスは言った。肉親という絆よりも大切なものがあると教えられたのか。家族は、血のつながりにより結ばれている。イエスはここで、神の御心によって結ばれる関係があると語る。神の御心を行う人は、私の兄弟、姉妹、母なのだと、語り、聞く人に大きな印象を与えた。
- ここでイエスは、「神の戒めを行う人」とは言わずに、「神の御心を行う人」と言われた。神の戒めを文字通りに守ることと神の御心を行うことは同じではない。形式的に神の戒めを守ることはいくらでもできる。信仰がなくても守ることはできる。「殺してはいけない、盗んではいけない、姦淫してはならない」。道徳的、倫理的な戒めは、信仰者でなくても守る人は大勢いる。イエスは神の戒めの背後にある神の御心を考えている。律法学者たちを偽善者とイエスが批判する時、それは彼らが神の御心に思いを向けず、ただ戒めを規則のように守っているだけで、神の御心に従っていないからである。
- 私たちの日々の生活においても、どれほど神の御心を思い、考え、生きているのか。日曜の礼拝の祈りの中で「この一週間、生活に忙しく、あなたの御心を忘れて過ごしてきました」と祈る時、それは何を意味しているのだろうか。しかもこのような祈りは繰り返されている。
- 神の御心を行う人がイエスの兄弟、姉妹、母なのだとするなら、神の御心を行わない人は、イエスとは他人となる。イエスとのつながりがないことになる。信仰とは、イエスとのつながりに生きることであると教えられる。
- この箇所で「神の御心を行う」という信仰者のあり方がはっきり示されている。イエスは人々を神の御心を行うように招いていられる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>御自分の兄弟、姉妹、母は神の御心を行う人だと教えられた。神の御心を行う人がイエスにつながる人である。
☆神が私たちに求める生き方
- <勧め>神の御心を行うこと。神の戒めの背後にある神の御心に思いを巡らすことは大切である。神の戒めを形だけ守ることは、神の御心を行うことにはならない。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、イエス様からあなたの御心を行うことを教えられました。私にとって聖書をどのように読むのか、神さまにどのように祈ればよいのか、課題でした。聖書については、ディボーションを教えられ、聖書を読むことを教えられ感謝しています。しかし祈りについては、まだ納得のできる答えは見つかっていません。祈りを務めとして、祈りの課題を祈っていくという祈りがあり、これは大切なことだと受けとめています。他者のことを思うためには、執り成しの祈りは必要です。
- 若い時から私は、自分は何をすべきか、と考えて生きてきました。自分の心を置き去りにしてきた面があります。かつてある人から、「あなたは自分の気持ちを大切にしていないから、他者の気持ちを大切にできないのだ」と言われたことがあります。
- 自分の気持ちを大切にしないから、神の御心を大切にできないのか、神の御心を大切にしないから、自分の気持ちを大切にしないのか、それは分かりません。
- あらためて自分の心を大切にすることを教えられました。祈りにおいて、自分の心をどれほど大切にしてきたのか、と思います。神さまの御心に向き合うために、自分の心に向き合うことも大切と思わされます。自分は今何をしようと考えているのか、どんな気持ちで老いを生きようとしているのか、何を喜びとしているのか、御国へのどんな希望を抱いているのか、どんな聖句を支えとしているのか、自分の心を探ってみたいと思いました。神さまに祈りながら、探ってみたいと思いました。今日は、どんな思いで老いを生きようとしているのか、あなたに祈りながら自分の子ここを探ってみたいと思います。
☆与えられた導き
- どんな思いで老いを生きようとしているのか、祈りつつ探る
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どんな気持ちで老いを生きようとしているのか
- 天の父なる神さま、あなたのみ心を知り、あなたの御心を行うために、自分の心を知ることも大事だと思わされました。今日は「老いを生きる」というテーマで、自分の心を探りたいと思います。
- 天の父なる神さま、老いと言えば、待っているものは死です。これについては、信仰により希望を与えられています。この信仰の支えは、神さまの言葉が真理であることです。私は漠然と来世を信じるのではなく、根拠に基づいて信じたいと願いました。だから私はキリスト教を選んだという面があります。もちろんあなたが私を信仰へ導いてくださいました。御言葉を真理として生きることが私の生き方になりました。御言葉を真理として生きることがなければ、死を越える希望は単なる願望となります。御言葉を真理として生きる時、死を越える聖書が告げる希望が真理となり、私の心を支えます。そして今、信仰に生きている自分を喜んでいます。
- 天の父なる神さま、老いにつきものとして病気、伴侶の喪失があります。これは大きな試練です。こればかりはどうなるか分かりません。健康の維持には努力しています。この点については、まさにあなたにおゆだねするほかありませんね。あなたが私たち、私と妻に対して最善の導きを与えてくださると信じ、おゆだねします。
- コロナ禍、自粛生活となり、閉じこもった生活になりがちです。礼拝もインターネットを通しての礼拝で、社会との関わり、他者との関わりが少なくなりました。隣人を愛することはキリスト者として大切なことです。この点で、私に対する神さまの御心はどうなのでしょうか。隣人を愛するという課題をいかに果たしていくのか、これについては御心を教えてくださいと今祈るしかありません。コロナ禍、人と接することを少なくすることが求められています。しかし人との関わりは直接会わなくても行うことができます。今、関わりを持っている人たちとの交わりを大切にしたいと思います。
- 天の父なる神さま、私は今福音とはそもそも何なのか、の学びをしています。牧師として福音を伝えてきましたが、福音とは何かを完全に理解して宣べ伝えたわけではありません。不十分にしか理解していないと思います。福音とは知識として知るだけではなく、生きてこそ分かる面があります。パウロにしても、彼は復活の主イエス・キリストとの交わりの中で教えられたことを手紙に書いています。それに基づいて、キリスト教の教理がまとめられていますが、パウロは最初から教理を学んだわけではありません。彼は生きて、信仰とは何かを学び、福音とは何かを学び、それを書き記しました。その意味で、私たちも福音を体験的に知ることが大切であり、私はまだ十分には学んでいないと思います。この学びも父なる神さま、導いてください。老いの中にあって、目の具合が悪くはありませんが、差し障りを感じます。目を守り、学びを導いてください。
- 天の父なる神さま、日常生活において、生活しているという実感を持つようになりました。特に料理をしていると、そう思います。人間生きていくためには食べなければなりません。自分でも料理をするようになって、楽しみとなりましたが、面倒と思うこともあります。どちらも本当です。料理において、なお成長したいと思います。料理は一つの生活力となりますので、身につけたいです。
- 天の父なる神さま、生活を楽しむこともあなたから与えられた人生を感謝することにつながると思います。日々の生活を心豊かにできたらと願っています。野の花に親しみ写真を撮るのも、あなたの創造の御業を思います。
- そして天の父なる神さま、あなたを賛美して生きていきたいです。あなたによって生かされた人生を歩んできたのですから、大いに賛美したいです。でも賛美する心が私の中にあると思いますが、漠然としています。賛美するここと、これを大切にし、育てたいです。これを一つのテーマとして考えたいです。賛美する心。
- 天の父なる神さま、祈りを通して、老いを生きる今の自分の気持ちを言い表せたと思います。感謝します。イエス・キリストの御名により祈ります。