第一テサロニケ 3章11~13節
2020年7月22日
(内容)
- テサロニケ教会のためのパウロの祈りが書かれている。テサロニケ訪問の道が開かれるように、テサロニケ教会の人たちが愛で満ちるように、イエスの再臨の時、テサロニケの人たちが聖なる、非のうちどころのない者とされるように。
(黙想)
- パウロはどこでこの手紙を書いているのだろうか。ある本によれば、コリントに滞在中とある。パウロは、テサロニケの人たちが苦難に遭っていることを知っているので、これからどうなるのか、とても気になっている。それでテモテをテサロニケに遣わし、テモテはテサロニケ教会について知らせをもたらしてくれた。そこで、自分もテサロニケに行く機会が与えられるように、神に祈り求めている。道が開かれるようにとの祈りは、クリスチャンが時に行う祈りではないかと思う。
- 次にパウロは、テサロニケ教会の人たちが互いに愛し合うように、さらにすべての人への愛で満たされるようにと祈る。これは大切な祈りである。教会に集う人たちが互いに愛し合う、これはとても大切なことである。そのために聖書には色々な教えが書かれている。互いに赦し合う、互いに相手を敬う、思いを一つにするなど。
- 三番目の祈りは、終末の時の祈りである。キリストがおいでになったとき、テサロニケの人たちを聖なる者、非のうちどころのない者としてくださるように、との祈り。
- 1章の最後で、テサロニケの人たちは御子の再臨を待ち望むようになっていることが書かれている。2章の最後では、イエスが来られるとき、テサロニケ教会以外のだれが、パウロたちの希望、喜び、誇るべき冠でしょうかと語っている。イエスの来られるのを待ち望む思いが具体的に生きている状況がある。そしてイエスが来られたとき、聖なる者、非のうちどころのない者とされるようにとのパウロの祈りがささげられている。
- ここには、クリスチャンが終わりの日、キリストにより、聖なる者、非のうちどころのない者とされるとの希望が語られている。つまり聖なる者となってこそ、神の御国に迎えられるのにふさわしい。自分はこのことを説教してきたのかと思う。葬儀の時、クリスチャンの希望が神の国にあることは語ってきた。葬儀には未信者も多いので、非のうちどころのない者とされることまでは語ることを控えた。
- 確かに終わりの日を見て今を生きることはしてきた。今さえよければいいのではなく、終わりの日、神がすべての人の主であることが明らかになるときのことを思い、今を生きることを心がけては来た。しかし終わりの日に聖なる者、非のうちどころのない者とされることを希望とすることを真剣には考えてこなかった。そして今、それを真剣に考えるように追い込まれている。
- 死を越える希望は具体的でなければならない。天国に行けるでは、漠然としすぎる。天国に行くのと極楽(浄土)に行くのと何が違うのか。クリスチャンは終わりの日に復活することを信じる。終わりの日の変化については聖書には色々な表現がある。霊の体に復活する、朽ちないものに復活する、主と同じ姿に変えられる、まったく聖なる者とされる、非のうちどころのない者とされる、神の似姿として栄光に満ちた者されるなど。このことを願う、それがクリスチャンの死を越える希望である。
- 今からでも遅くない、この希望に生きよう。そしてそのことを伝えよう。
(聖書に聞く)
☆神はいかなるお方か
- (御父)道を開いてくださるお方
- (御子)道を開いてくださるお方
- (御子)再臨され、クリスチャンを神の御前で聖なる、非のうちどころのないものしてくださるお方
☆神が私たちに求める生き方
- (教え)互いに愛し合うこと。
- (希望)クリスチャンの死を越える希望は、神の御前で聖なる、非のうちどころのない者とされること。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日もディボーションでき感謝です。パウロはテサロニケ訪問の道が開かれるように祈っています。8月にM教会で説教奉仕をすることになりました。今、新型コロナウィルスによる感染が徐々に拡大しつつあります。今後の状況によっては、出かけることがむずかしくなるかもしれません。コロナのために御言葉の奉仕ができなくなるのは残念です。そうならないように守り導いてください。
- クリスチャンの希望は神の御前に、聖なる、非のうちどころのない者とされることにあると教えられました。そのことを願い、聖なる者を目指して歩みます。
- 妻と共に聖なる者としての歩みを続けます。私にとっては御言葉によって生きる、それが聖なる者を目指す歩みです。今週は忙しさに紛れて妻とのディボーションの分かち合いを忘れてしまいました。気のゆるみをお赦してください。明日の午後、分かち合いを行います。
☆与えられた導き
- 8月の説教奉仕が無事にできるように祈る。
- 明日分かち合いを行う。