第一テサロニケ 2章17~20節
2020年7月14日
(内容)
- パウロは、テサロニケの人たちにあなた方の顔を見たいと願い、訪問の希望を持っていることを告げた。そしてテサロニケの人たちは、イエスが来られるとき、その御前で、パウロの喜びであり、誉れであると告げる。
(黙想)
- パウロはテサロニケの人たちの顔を見たいと望んだ。「会いたい」とは言わず、「顔を見たい」と言った。直接的な触れあい、交わりを願っていることを感じる。顔を顔を合わせて親しく交わりたいとの思いが伝わってくる。
- パウロたちにとってテサロニケ教会の人たちは喜びであり、誉れであり、誇りである。そのことを強調するかのように、主が来られ、共に主の前に立つその時、主の御前で、テサロニケ教会の人たちは、希望、喜び、誇るべき冠と語る。
- 私たちは主が来られる時、ひとりで主の前に立つのではなく、信仰を共にした人たちと主の前に立つというイメージを描いてよいと思わされた。
- 果たして自分は主の前に立つとき、共に主の前に立つことを喜びとするような人がいるのだろうか。牧師なら、自分が牧会した教会員すべてと共に主の前に立つことを喜びとすべきだろう。でもここではさらに一歩踏み込んで、パウロたちにとってテサロニケの教会の人たちは、誇るべき冠だという。冠となれば、牧会した教会員すべてというわけにはいかない。
- パウロと違い、凡人の牧師は誇るべき冠と呼べるような人をどれほど育てることができるのか、と思う。しかし教会に仕えていたとき、共に労してくれた人たち、自分が語った福音を聞き信仰を成長させた人たちは、誇りとすべき人たちである。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- (御子)御子は終わりの日にこの世界においでになるお方である。
☆神が私たちに求める生き方
- (教え)再臨の主の前に立つとき、私たちは信仰を共にした人たちと共に主の前に立つ。牧会の労苦を共にした人たち、共に聖書を学び共に成長した人たちを誇りとし、喜びとすることができる。楽しみである。
- (教え)終末信仰をたしかにするために、自分が誇りとし喜びとし誉れとするような信仰者と共に主の前に立つ光景をイメージとして描くことはよいのではないか。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、パウロはイエス様が来られるとき、テサロニケの人たちを誇りとすると語りました。私は誰を誇りとするのかと思いました。平凡な牧師でしたが、礼拝説教、聖書の学びの会を通して、信仰の成長を見せてくれた人の存在は、うれしいものです。福音の力を見せられる思いがします。教会に仕えているとき、このような信仰者を与えてくださった神さまに感謝します。
- 不思議なのか、当たり前なのか分かりませんが、このような信仰者のためには今も執り成しの祈りをしています。これらの兄弟姉妹と共に主の前に立つ光景を思い描き、主の到来を待ち望む者とさせてください。このことを祈りの課題として祈り続けたいと思いました。感謝します。
☆与えられた導き
- 誇りに思える人たちと共に主の前に立てる主の到来を待ち望む祈りを続ける。