第一テサロニケ 5章1~8節

2020年8月4日

(内容)

  • 主の日はいつ来るのかわからないので、目を覚まし身を慎んでいようと勧めがなされる。

(黙想)

  • 主の日は突然来ることをあなたがたは知っているとパウロは念を押している。他方、人々は「無事だ、安全だ」と言って、主の日の到来には無関心で生きている。だが主の日は突然到来する。
  • パウロが生きていた時代から2千年ほど過ぎているが、また主の日は到来していない。主の日がいつ来るのか、それは私たちには分からない。今、新型コロナウィルスによる感染が世界中に広まっている。パンデミック(感染爆発)である。このようなパンデミックが来るとは多くの人は予想していない。「無事だ。安全だ」といって日々を過ごしてきた。しかし3節にあるように「破滅が襲う」ことが現実となっている。
  • 新型コロナによる感染拡大は、主の日の到来が確かであることを示していると思う。それがいつ来るのかは分からない。しかしいつ来てもいいように備えておくことは大切だ。
  • ここで信仰者は昼に属し、光の子、昼の子だとされている。信仰を持たない人たちは、夜に属し、暗闇に属しているという。この人々は、夜眠り、夜酒に酔うとあり、主の日の到来に備えていないことが示されている。明日も明後日も、自分は無事で安全だと思っている。しかし思いがけない時に破滅が襲う。
  • しかし光の子、昼の子である信仰者は目を覚まし身を慎んで、いつ主の日が来てもいいように備えておくことが勧められる。具体的には、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょうと勧められる。
  • ここで大切なことは自分がどちらに属しているかである。昼に属しているのか、暗闇に属しているのか。昼に属しているなら、それにふさわしく生きることが大切となる。信仰者は、自分のアイデンティティーを自覚することが大切であり、この自覚が信仰者の歩みを確かなものにする。アイデンティティーがあいまいだと信仰者なのかそうでないのか、あいまいな生き方になってしまう。
  • 自分はどちらに属しているのか、自分に対して告白してみよう。そしてそれにふさわしい生き方をしよう。
  • 信仰と愛の胸当て、希望の兜を身につけるよう勧められる。いずれも防具であり、武器ではない。信仰と愛と希望が大事なのである。信仰者は何があろうと神を信じ、神の愛にゆだね、神に望みをおいて生きる。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方
  • <御父>主の日をもたらす方。
☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>自分が昼に属していることを覚えて振る舞うこと。
  • <勧め>いつ主が到来してもいいように目を覚まし身を慎むこと。希望の兜をかぶり、信仰と愛の胸当てをつけて、身を慎むこと。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日は主の日の到来に備えることを教えられました。主の日は突然訪れること、そして主の日は破滅でもあると教えられました。私はイエス・キリストを信じる信仰を与えられ、救いにあずかるようにされているので、主の日をいたずらに恐れる必要がないことを感謝します。そして私は昼の子、光の子とされていることを信じ、喜びます。
  • そして目を覚まし、身を慎むようにと教えられました。今、新型コロナの感染の脅威の中、どのように生活するのかが問われます。感染のリスクのある行動は避けることが求められます。今月末には説教奉仕があるので健康に留意します。感染が拡大せず無事に奉仕できるよう祈ります。
  • 現代人の感覚として主の日の到来は実感できませんが、信仰に生きる者として、主の日の到来を覚えて歩みます。主の到来が明日であっても構わないように、一日一日を大切に過ごしたいと思います。明日のための今日ではなく、今日は今日という日の充実を目指して歩みたいと思います。
  • 今日行うことをノートに書き、それを実践すること。
☆与えられた導き
  • 本日すべきこと(to do)をノートに書き行う。
  • 今月末の説教奉仕に備え、健康に留意し祈って備える。