マタイ福音書 5章1~12節
2020年6月19日
(内容)
- 山上の説教の中の幸いについてのイエスの言葉。とても有名な言葉。
(黙想)
- ここには色々な人たちが幸いであると言われている。なぜ幸いなのか。
- 心の貧しい人たちと義のために迫害されている人たちは、天国がその人たちのものであるからと理由が示されている。天国は今、その人たちのものだという。心が貧しくても、迫害されていても、そんな状態、状況にもかかわらず、今、幸いなのだという。
- その他の人たち、たとえば悲しんでいる人たち、柔和な人たち、義に飢え渇く人たち・・・は、将来に報いを得るからと幸いな理由が語られている。現実は、つらい状況の中にある。普通なら幸いとは思えない。でも将来の報いがあるから幸いであるという。将来といっても天の国に迎えられた時の報いである。
- 将来の報いがあるから、今は我慢しなさいとの教えなのか。我慢を強いるのか。違う。ここでは天国の報いを真剣に考えなければならない。天国とはどういう所なのか。天国とは、慰めを受けるところ、地を受け継ぐところ、満たされるところ、憐れみを受けるところ、神の子と呼ばれるところなのである。信仰者は今この世に生きている。この世がすべてではない。この世の歩みが終われば天の国に迎えられる。天の国は、深くいやされ、深く満たされ、深く慰めを受け、深く受け取るところなのである。それを思い、今、主イエスに従うのである。
- 悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を実現する人、義のために迫害される人、これらは皆、主イエスに従う人であり、主イエスに従うために自分の十字架を背負う人である。
- そして天の国は、主イエスに従う人すべてのものである。ここに幸いと呼ばれるすべての人たちのものである。だから信仰者は「今の現実」を生きる力が与えられる。「天の国」とは、神の御支配を意味する。目には見えないが神の御支配が今あると信じる。神が信仰者と共にいてくださると信じ、この神の導き、加護を信じる。信仰者の身に起きる出来事には意味がある。意味がなく苦しむことはない。だから今を生きる力が与えられる。
- 信仰者は将来、天の国での報いが与えられる。信仰者は天の国での報いに憧れるのではないか。その憧れを強いから、悲しみ、柔和になり、義に飢え渇き、憐れみ深くなり、平和を実現しようとし、義のために迫害されるのではないか。天の国に憧れる、これは大切なことなのだ。天の国の憧れがキリスト者の生きる力となる。
- 天の国がどんなところか主イエスは知っている。これが大切だ。
- 天の国への憧れを持つ者は、喜んで生きることができる。大いに喜ぶことができる。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- <御父>神は私たちをご自身の支配のもとに置いてくださる。
- <御父>信仰によって歩んだ私たちを天の国で癒やし、慰めてくださる方である。
- <御子>イエスは天の国がいかなる所か知っている。
☆神が私たちに求める生き方
- <約束>神の御支配の中を生きることができる。
- <教え>天の国に憧れること。それが主イエスに従う力になる。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父よ、今日の聖書から、あなたは私たちと共におられることを教えられます。また天の国における報いのあることも教えられました。主イエスは天の国がどのようなところかご存じであり、私たちを励ましてくださいます。主イエスに従い、自分の十字架を背負う道は、順風満帆な歩みではありません。しかし天の国の報いに憧れるので、この道を歩むことを思います。
- 天の父よ、私はもっともっと天の国に憧れたいです。今日の聖書から、天の国では、慰めを与えられ、地を受け継ぎ、満たされ、憐れみを受けるとあります。これがどんなに素晴らしいことなのか、思いめぐらすことができますように。天の国を思いめぐらすことを一つの課題とします。
- 天の父よ、今日はEMバンズの『天国』を読みます。また天の国を待ち望む讃美歌で好きな讃美歌をピックアップして賛美したいと思います。
☆与えられた導き
- 『天国』を読む
- 天の国を待ち望む讃美歌をピックアップして賛美する。
~~~~~~~~~~
EMバンズの『天国』を読み終わった。
聖句が多く引用されている。
それらの聖句を黙想したいと思わされた。
バウンズのように素直に天の国に憧れることができない時代に
僕たちは生きていることを思わされた。