マルコ福音書 14章1~2節 自己批判できる自由
2022年11月15日
(内容)
- 祭司長や律法学者たちは、計略を用いてイエスを殺そうと考えていた。
(黙想)
- 律法学者たちが主イエスを殺そうと考えたということは、この福音書で3回書かれている。
- 安息日にイエスが手の萎えた人を癒やした出来事が3章1~6節にある。ファリサイ派とヘロデ派の人たちがイエスを殺そうと相談したとある。
- 11章18節。イエスが宮潔めを行ったとき、祭司長、律法学者たちはイエスをどのようにして殺そうかと謀ったとある。そして14章の1~2節のこの箇所。
- 彼らはイエスが神から遣わされたことを信じなかった。イエスは安息日に病人をいやし、安息日の律法を破っていると彼らは考えた。また神殿の境内でイエスは狼藉を働き、神殿を侮辱したと考えた。彼らはイエスの働きの中に神のみ業を見ることができなかった。見ようとしなかった。
- 彼らは真理を追求する思いはなかった。イエスの働きの中に神のみ業を見るつもりはなかった。ファリサイ派、律法学者たちは、律法を研究し、律法を実践するという自分たちの信仰生活という枠組みの中に浸りきっていた。イエスの働きはそれに衝突する面があり、彼らはイエスを邪魔者扱いし、殺そうと考えた。イエスが人気があることには妬みを感じていたかも知れない。
- イエス自身はすでに弟子たちに、3回、自分は祭司長や律法学者たちに引き渡され、殺されることを語っていた。
- 自分の考えに凝り固まると真理を拒否する危険性のあることを知る。信仰の事柄においては、自分の生き方がかかっているので、余計に真理を拒否する可能性が生じる。神学的な自分の立場。一つの立場に立つことによって人はある意味安心する。そして自分の基盤が揺るがされることを人は嫌う。自己批判し、自分を変える自由を持つにはどうしたらよいのか。自分の中に絶対的な基準を持たないこと、聖書を絶対的な基準とすること。常に聖書に照らし合わせて考えれば、自己批判できる自由を確保できる。キリスト者だから、牧師だから、自分の立場は確固としたものであると考えるなら、ファリサイ派、律法学者たちの二の舞になりかねない。
- 自分と異なる意見、考えについては、慎重に、謙遜に吟味する必要がある。パウロは、クリスチャンを迫害していた。神に対する熱心のゆえに。復活のキリストに出会ったときの彼の衝撃はいかほどのものだったのか。パウロでさえ、間違った立場に固執するのである。気をつけなければならない。
(聖書に聞く)
☆神が私たちに求める生き方
- <警告>自分の立場に固執し、真理を拒むことがあってはならない。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、牧師としての歩みの中で、私は色んな人と出会いました。信仰を得てすぐに神学校に行きました。自分には何もないと考えていたので、人との出会いの中で信仰についての学びを得てきました。そして自分なりに聖書が伝える信仰はどういうものであるのか、学び、身につけてきました。そして今の自分があることを感謝をするものです。
- しかし天の父なる神さま、私は自分の信仰に満足してはいません。聖書が伝える信仰に近づきたいとの思いがあります。自分の信仰の不十分さを知っています。今日の聖書を読み、信仰者としての私の歩みをみ言葉をもって導いてくださることを願うのみです。
- 先ほど賛美した讃美歌の歌詞が心に留まりました。これをあなたの導きと受けとめます。その歌詞によって与えられた励ましをブログに書いてみたいと思いました。導いてください。
☆与えられた導き
- 讃美歌の歌詞から与えられたインスピレーションをブログに書く