ローマ 3章29~31節 律法を確立する
2022年11月11日
(内容)
- 神はユダ人も異邦人も共に信仰によって義とする。信仰によって義とすることは律法を無にすることではなく、律法を確立することである。
(黙想)
- 「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか」。「それとも」という言葉は強い言葉である。パウロはなぜ、「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか」と書いたのか。信仰によって義とされることを書いている文脈である。
- パウロはローマ書の1~3章で異邦人もユダヤ人も神の前に罪を犯していること、それゆえ、正しい者は誰もいないこと、しかしイエス・キリストを信じる信仰によって人は義とされることを書いてきた。ユダヤ人も異邦人も信仰によって義とされる。22節には、「そこには何の差別もありません」とあり、すでにユダヤ人も異邦人も共に信仰によって義とされることを書いている。
- それなのになぜ、「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか」と書くのか。
- パウロはガラテヤ教会のことが念頭にあるのかも知れない。ガラテヤ教会はパウロの伝道によってできた教会である。パウロがガラテヤを去った後、ユダヤ人キリスト者で教師とされる人がやってきて、割礼の必要を説いた。救いのためには、キリストを信じることに加えて割礼を受ける必要を教えた。このためガラテヤ教会は混乱に陥った。
- 割礼の必要性を説くことは、異邦人が異邦人のままで、義とされることを否定することになる。異邦人にユダヤ人のようになることを強いる。パウロはこのようなことを思い、あえて29節を書いたのかも知れない。神はユダヤ人だけの神ではなく、異邦人の神でもあると書く。ユダヤ人教師が割礼を説く余地をなくしている。自分が伝えたいことを誤解の余地なく伝えることができるよう心を砕くパウロがいる。
- 新しい問題が語られる。信仰によって義とされるなら、律法はどう位置づけられるのか。無用になるのか。パウロは、信仰によって義とされることは、律法を確立することになると書く。律法を確立するとはどういうことか。
- 8章4節に「霊に従って歩む私たちの内に、律法の要求が満たされるためでした」とある。
- 律法の実行によって義とされることはない。なぜか。律法の要求を満たすことができないからである。しかし霊に従って歩むとき、律法の要求は満たされる。だから信仰によって義とされ、霊の導きに従うなら、律法を無用にすることはなく、むしろ律法を確立すること、律法の要求を満たすことにつながるとパウロは主張する。
- 人は自分の努力では、律法の要求を満たすことはできないが、信仰によって義とされ、霊の導きに従うなら、律法の要求を満たすことができるようになるとの理解がある。律法の実践によって義とされることはないが、義とされたら律法の要求を満たすことができる。
- 結局、恵みによって義とされたことを感謝し、神の愛に感謝する者は、神の御心を示す律法を無用にするはずがない。神の御心を示す律法を大切にする。律法を満たすことを大切にする。キリスト者は、律法を無用にせず、律法を満たす者であることを心に刻みたい。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>ユダヤ人も異邦人も、信仰によって義とする方。
- <御父>神はユダヤ人の神であり、異邦人の神でもある。異邦人が割礼を受けユダヤ人のようになることを神は求めない。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>信仰によって義とされることは律法を無用にしない。
- <教え>信仰によって義とされた者は、律法を確立する。つまり律法の要求を満たすことを大切にする。
- <教え>ユダヤ人、異邦人の区別はない。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、大切なことを確認しました。信仰によって義とされた人は律法を確立すること、律法を満たすようになることです。
- でもこのことはあまり教えられず、信じられてもいないと感じています。残念です。これを信じるには、ローマの信徒への手紙の特に5~8章を理解し、そこに書かれている信仰に生きないと、信じることはできないと考えます。
- あらためて思います。牧師を引退して、時間に余裕ができた今、この手紙の内容を伝えたいと思います。そしてそれを残された人生の使命としたいと思いました。天の父よ、私の歩みを祝福し、導いてください。このロマ書のデボーションを導いてください。
☆与えられた導き
- 自分の使命をきちんと受けとめること。
- ロマ書のデボーションの導きを祈る。