ローマ 4章1~3節 パウロの姿勢
2022年11月19日
(内容)
- パウロは、信仰によって義とされることは新しいことではないことをアブラハムの例を引いて伝える。
(黙想)
- パウロが信仰によって義とされることをアブラハムを引用して語るのはなぜか。それはおそらくユダヤ人たちを説得するためである。当時のユダヤ人には、律法を守る者が神の前に正しい信仰者であり、律法を守る者を神は祝福してくれるという考えが一般的であった。
- それには歴史的な理由がある。イスラエルの国は滅びた。それは神の戒めに従わず、神の怒りを招いたからである。だから神の祝福を得るには、まず、律法を守ることが大切とユダヤ人たちは考えたのである。
- ファリサイ派、律法学者たちは、自分たちは律法を守っており、神の前に正しい者であると自負していた。さらに神の祝福は自分たちに与えられていると信じていただろう。何よりもクリスチャンになる前のパウロがそうであった。
- だからユダヤ人には信仰によって義とされる考えはすぐには受け入れにくい面があったと思われる。それでパウロは信仰の父でもあるアブラハムは信仰によって義とされた人であり、神の前に正しい人は、その信仰が義とされる人であることを紹介し、信仰によって義とされることは、昔から、そうであったことを伝える。
- 神の前に正しい人は、神の教えを守る人ではなく、神を信じる人である。さらに言えば、神の言葉、神の約束を信じる人である。
- アブラハムの信仰が義とされたのは創世記15章にある。アブラハムは神から約束を与えられていた。彼の子孫は大いなる国民になるという約束である。しかしアブラハム夫婦には子がいない。しかも老夫婦である。アブラハムの心に、このままでは神の約束は実現しないのではないかという思いが生まれた。あの神の約束を信じ続けることに困難を覚えた。その時神が彼に現れた。夜である。そして神は言う。「天を仰いで星を数えることができるなら数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」。この神の言を聞いて、アブラハムは再び神の約束を信じた。このアブラハムの信仰を神は義とした。
- 神の前に正しい人は、神の約束を信じる人である。それは昔も今も変わりがないとパウロは語る。これは大切なことだ。私たちが生きている世界は、行いによって報酬を得るという社会であり、律法を行う者が神に祝福され、救われるという考えは受け入れられる。そして信仰によって義とされるという考えは、受け入れるのにためらいを誘う。
- 信仰に生きるとは、神と関わって生きることであり、信仰者と神との関係が大切である。だから神の言葉を信じる者が正しい人なのである。
- パウロは、相手が信じることができるように、あれでもかこれでもかと説明を尽くす。この姿勢は見倣いたいと思う。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御父>信じる者を義とする方。神の言葉、神の約束を信じる者を義とする方。
☆神が私たちに求める生き方
- <教え>神の前に正しい者は、神の言葉、神の約束を信じる者、その神の言葉、約束に生きる者である。
- <模範>分かってもらいたいとの思いから来る、説明を尽くすパウロの姿勢
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝です。二つのことを覚えました。あなたは信仰によって義とされる方、これは昔からそうであったことを教えられます。信仰とは、あなたとの交わりに生きることですから、あなたの言葉を信じることが一番大切です。あなたが正しいと見なす人は、あなたとの関係を大事に考え、あなたの言葉を大切にし、あなたに信頼する人であると教えられます。
- 今ひとつ、パウロは福音を伝えるために、ていねいに徹底して伝えようとしています。相手が抱くかも知れない疑問を想定して、それに対しても説明をしています。本当に福音を伝えたいのだと知らされます。ていねいに徹底して説明するパウロの姿勢は見倣いたいと思います。私はブログを書いて、福音を伝えたい、証しをしたいと考えていますので、パウロの姿勢は大切です。導いてください。
☆与えられた導き
- ていねいに徹底して説明する姿勢を大切にしてブログを書く