マルコ14章3~9節 できる限りのことをイエスに
2022年11月21日
(内容)
- 重い皮膚病のシモンの家での出来事。一人の女が高価なナルドの香油をイエスの頭に注いだ。すると何人かの人たちが彼女の行為を批判した。それに対してイエスは・・・。
(黙想)
- まず思うことは何人かの人たちの批判は余計なお世話である。人が自分の持ち物をどう使おうと他人から批判される筋合いはない。高価な物を無駄に使ってみたから無駄遣いと何人かの人たちが批判したのだが、余計なお世話である。人はとかく他者を批判したがる。
- それに対してイエスは心を見る。この女性が「できる限りのこと」をイエスに対してしたことをイエスは知っている。イエスは私たちの心を知っていてくださる。イエスは私たちの献身を知っていてくださる。そして余計なお世話ともいうべき批判をしてこの女性を困らせていることについて、イエスは批判している。人を批判し、裁きたがる心をイエスは批判した。
- この女性がなぜ、高価な香油をイエスの頭に注いだのか。旧約聖書には、祭司、王、預言者などの務めに就くとき、頭に油を注ぐという儀式が行われたことが書かれている。メシアはもともと油を注がれた者との意味である。この女性はどんな思いで香油を注いだのか。
- イエスは彼女の行為を埋葬の準備と理解した。そしてそれを受け入れている。彼女ができる限りのことをしたと認めている。福音書には、イエスが葬られた墓に女性たちが香油を持って出かけたことが書かれている。遺体に塗るのである。
- 祭司長や律法学者たちがイエスを殺そうと考えていたと語る1~2節。10節にはユダが、裏切る意図を持って祭司長のところへ出かけたとある。この二つに挟まれるようにして、ひとりの女性がイエスに香油を注いだこの物語がある。そしてイエスはこれを埋葬の準備と受けとめた。イエスが殺されるときがいよいよ近づいていることが分かる。
- イエスのためにできる限りのことをする、大切なことだと考える。しかし人は、そのような行為を批判することがある。献身的な行為が危うい行為に見えるのだろう。旧統一教会への多額の献金が問題になっている。何に献身するのかが大切である。
- イエスは彼女の行為を福音が宣べ伝えられるところでは、彼女の行為は語り伝えられると祝福している。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方か
- <御子>人の心を知る方。この女性がイエスに対してできる限りのことをしたことをご存じである。そして彼女の行為を好意的に受けとめている。
- <御子>イエスに対してできる限りのことをする人をイエスは祝福してくれる。
☆神が私たちに求める生き方
- <罪>人の行為を裁くように批判すること。自分を正しい人と見なし、他者を裁く行為は、罪である。
- <模範>この女性のようにイエスに対してできる限りのことをする。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、ひとりの女性の主イエスに対する献身的な行為を読みました。その行為を批判する人たちがいましたが、主イエスは彼女の心とその行為を受けとめられました。批判する人はどこにでもいることを思います。大切なことは真心をもって主イエスに仕えていくことです。
- あらためて思います。私が日々聖書に親しみ、デボーションを行い、これをネットで紹介するのは、一人でも多くの人たちが聖書を読み、思いめぐらし、神さまとの交わりに生き、御言葉によって歩むようになることを願ってのことです。
- 自分のデボーションをありのままに書くことについては、ためらいがないわけではありませんが、み言葉に生かされ、生きている自分を御言葉に生きることの証しとして提示したいと考えています。
- なぜこのようにネットで公開するのか。私もまた主イエスに対してできる限りのことをしているのだと考えます。人がこれを読んでどう思うのか、それは気にしないことにします。もし批判があるとしても、それは余計なお世話です。主イエスは私の心を知っていてくださる、それで私は十分です。
- 老いた者として御言葉によって歩んでいる歩みを証しとして伝えたいと思います。これからも導いてください。事情が許す限り続けていきます。あなたの導きを祈ります。
☆与えられた導き
- デボーションの公開に導きを祈る。