マタイ福音書 26章6~13節 愛の献身

2021年3月1日

(内容)

  • イエスが重い皮膚病のシモンの家にいた時、一人の女性が高価な香油をイエスの頭に注いだ。弟子たちは彼女の行為を非難したが、イエスはこれを自分の葬りの備えと解釈し、彼女の行為をたたえた。

(黙想)

  • 一人の女性が、高価な香油の入った壺を持ってイエスに近寄り、イエスの頭に香油を注ぎかけた。この女性がなぜ、このような行為をしたのか、理由は書かれていないので分からない。高価なものをイエスのために用いたことは確かである。
  • マルコ14章によれば、ここで使われた香油は300デナリオンで売ることができるという。1デナリオンは労働者の1日の賃金と言われる。奈良市の最低賃金は一時間838年。仮に1日5000円として、300デナリは、150万円である。ヨハネ福音書によれば、流された香油の量は1リトラ。約328g。1gあたり4500円。相当高価な香水に相当すると思われる。なぜそんな高価なものをこの女性が持つことができたのかは分からないが、高価な香油を一気にイエスの頭にかけたのである。
  • ルカは7章で、イエスがあるファリサイ派の人に食事に招かれたことを語る。するとひとりの罪深い女性が、イエスの足に香油を塗った。イエスを自宅に招いたファリサ派の人は、イエスがこの女性にされるがままになっているのを非難した。するとイエスは、「あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた」と語る。客を招いた時、香油を頭に塗る習慣はあったようだ。その場合は、少しの香油しか用いないだろう。
  • 少量の香油を用いたのでれば、弟子たちはこの女性を非難することはなかっただろう。多量の香油を、イエスの頭に注ぎかけたのを見て、弟子たちは驚いた。あっけにとられた。そして弟子たちはこの女性を非難した。何という無駄遣い。こんな浪費をするなら、これを売って貧しい人に施しをすることができる。
  • 人が自分のものをどのように使おうと、それを他人があれこれ批判するのは余計なお世話である。この女性は悪いことを行っているわけではない。とかく人のことを裁きがちな人間の罪の心を弟子たちは露呈している。
  • イエスは、弟子たちに「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」と言った。イエスはこの女性の行為を受け入れている。
  • イエスはこの女性の行為を自分の葬りの準備と解釈した。人を墓に葬る時、香油を塗り、遺体を亜麻布に包む習慣が当時あったようである。しかしこの女性は自分がイエスの葬りの準備をしたとは思っていないと思う。でもイエスは彼女の行為を、自分の葬りの準備と解釈した。イエスの体に香油が塗られたことになるが、これが文字通り、遺体に香油を塗って亜麻布に包む、そういう葬りの準備になったとは言えない。これからイエスは捕らえられ、裁判をかけられ、その体は鞭打たれ、十字架につけられて亡くなる。香油の香りは残っているかも知れないがそこには血や泥やほかの臭いも混ざっていて、遺体を葬る備えの香油の代わりにはならないと思う。
  • イエスはなぜ、自分の葬りの備えと解釈したのか。この女性は、イエスのために高価な香油を使った。イエスに対して愛を示したといってよいのではないか。この女性の愛の献身の中に、自分の葬りの準備を見たとイエスは語ったのではないか。イエス自身の十字架の死、それもまた人類を罪から救うための死であり、人類への愛の献身ということができる。あるいは神の計画への献身ということができる。この女性の愛の献身は、イエスを喜ばせたと思われる。そしてイエス自身の愛の献身の準備と受けとめた。
  • イエスは十字架に向かって歩まれる。イエスに敵対する者たちが憎しみからイエスを捕らえ、十字架につけようとする。そしてイエスの弟子たちはイエスを見捨てて逃げる。人類を罪から救おうとしておいでになったイエスは、すべての人から見捨てられたかのようである。しかし、ここに一人の女性がいて、イエスに対して愛の献身をした。彼女のことが後世にまで伝えられるのはもっともなことだと思う。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御子>イエスはこの女性の献身の行為を受けとめている。神は我々の献身を受けとめる方である。
☆神が私たちに求める生き方
  • <警告>人が自分のものをどのように使うかは、その人の自由である。それをとやかく言うのは、余計なお節介であり、人を裁く行為に他ならない。
  • <勧め>私たちも、また献身に生きることが求められている。イエスは弟子たちに教えられた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16:24~25)。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、受難節の中にあって、聖書を思いめぐらしました。イエス様はあなたのご計画に献身し、十字架に向かって歩んでおられます。イエス様は一人の女性の愛の献身を喜ばれました。私の心に「主にのみ十字架を負わせまつり、われ知らずがおにあるべきかは」との讃美歌が響いてきます。2番の歌詞もあらためて心に響きます「十字架を負いにし聖徒たちのみ国によろこぶさちやいかに」。
  • 引退した牧師として思うことは、この国の教会の行く末です。伝道は思うように進まず、教会員は高齢化し、地方の小さい教会から存続できなくなるのではないかと憂います。国会の議論を聞いていると、国の指導者(政治家、官僚)たちは嘘をつき、ごまかし、言い逃れをして保身に走ります。誠実、正直という徳がなきに等しい状態です。経済がいくら繁栄したとしても、貧しい社会だと言わざるを得ません。福音こそ、社会を変えると信じますが、教会の伝道も思うようには進んでいません。そんな中で自分に何ができるのかと思います。
  • あなたがこの国の福音伝道を盛んにしてくださることを切に願うのみです。受難節は主イエスの苦しみを思う時ですね。イエス様も神さまの救いの計画に献身し、苦しみを通られました。また私も祈りつつ苦しみの中を通りたいと思います。
☆与えられた導き
  • この国の伝道のために祈る。