マタイ福音書 26章1~5節 信仰と確信の間に
2021年2月26日
(内容)
- イエスは、御自分が十字架につけられるために引き渡されると弟子たちに語る。他方、祭司長や民の長老たちはイエスを捕らえ殺そうと相談をしていた。
(黙想)
- 24~25章でイエスは終末について弟子たちに語った。25章の最後では、イエスは栄光に輝いて、天使たちを従えて来られ、栄光の座に着くこと、そしてすべての国民を集めて裁きを行われることを告げた。
- そして今、ご自身が十字架につけられることを弟子たちに告げる。これまですでに三度イエスはご自身の苦難の死と復活を告げてきた。しかし弟子たちはイエスの死が何を意味しているのかは分からないでいた。
- イエスご自身は、自分の死をどう受けとめているのか。20章で「多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た」(28節)と語られた。さら最後の晩餐の時、杯から飲むように弟子たちを促し、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と語られた。旧約では罪を犯した時、動物のいけにえを献げて神に赦しを求めることが定められている。イエスが罪の赦しのためのいけにえとして死ぬことになるとイエスご自身は語る。イエスはご自分の死の意味を知っている。
- さらに死んだ後3日目によみがえることを弟子たちに三度語ってきたし、終わりの日には天使たちを引き連れてこの世界においでになり、裁きを行うことを語られた。
- イエスはご自分の死を意味のある死と受けとめ、その死を受け入れている。しかもその死は十字架刑の死である。病院や自宅の安らかな死ではなく、十字架刑による死である。さらにイエスは十字架の死後3日目に復活すること、終末の日、天使を従えて今一度この世界にくることを語っている。自分の死後に何が起きるのかを知っている。信じている。
- イエスの内面を推し量ることはできない。私たちに分かることは、イエスはご自身の死を神の計画の中にあることと信じていたことである。そして終末の時に再臨し、すべての国民を裁くことになると信じていることである。
- このイエスを救い主として僕は信じる。イエスは神の計画を信じ、その計画に身を献げている。この生き方は模範となる。イエスは羊飼いであり、僕はこの羊飼いについていく羊である。僕は自分の死後に起きること、復活と終末の到来について、信じることにしている。
(聖書に聞く)
☆神はいかなる方
- (御子)十字架の死を遂げることをご存じであり、その死を受け入れている。
- (御子)御自分が死後3日目に復活すること、終末の時、この世界に再びおいでになることを知っている。神の計画として知っている。
(神の導き)
☆祈り
- 天の父なる神さま、イエス様は自分が捕らえられ、十字架につけられることを知っています。これを避けることを考えず、十字架の死に向かって歩まれます。自分の進むべき道を進まれます。また死後3日目に復活すること、終末の日に今一度この世界においでになることを知っておられます。私たちは週末が到来した時、私たちも復活し、最後の審判を受けて、その後神の国に迎えられると教えられていますし、信じています。
- 他方、自分の死後に起きるとされていることは、本当に起きると100%の確信はできません。人間は将来に起きることを前もって知ることはできません。しかしイエス様は、ご自分の身に将来に起きるとされることを信じて歩んでいます。これは私も見習えたらいいなと思います。
- 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブル11:1)。信仰とは確信することであるとありますが、私は信じることと確信することの間を揺れ動いています。自分の気持ち的に言えば、心から確信したいです。死後の事柄に関する100%の確信は無理だと思います。でも確信したいのです。これが私です。この点をめぐって、イエス様に自分の気持ちを打ち明けて祈ってみたいと思います。
☆与えられた導き
・信仰と確信をめぐってイエス様と対話する。