第一コリント 14章26~40節 教会を造り上げる

021年2月25日

(内容)

  • 教会の集会で異言が語られる場合、また預言が語られる場合、どのようにすべきかの指示が語られる。

(黙想)

  • 異言を解釈する人がいない場合は、異言は語るべきではない。解釈する人がいるなら、異言を語るのはせいぜい2、3人までとする。預言の場合には、語られた内容を吟味する必要がある。預言がなされている場合、他の人に啓示を与えられた場合、先に語っていた人は黙る。神は無秩序の神ではなく、平和の神であり、秩序を持って集会を行うべきである。
  • そしてパウロは、預言することを熱心に求めよと命じる。14章の最初にも、預言する賜物を求めよと語っている。大事なのは教会を造り上げること、言い換えれば、そこに集う人たちを造り上げることである。だから預言する賜物を熱心に求め、預言することを熱心に求めることが大切である。
  • 私たちの教会では、異言の賜物、預言の賜物が話題になることはない。ここでパウロが語っていることは大切である。私たちはここに語られている聖霊の賜物を受けて語るということはないかも知れない。しかし聖霊の導きを受けて語るということはあるし、求めるべきだと考える。
  • そもそも聖書は聖霊の導きを受けて書かれたものであり、聖霊の導きを受けて読むのが正しい読み方である。聖霊に導かれて聖書を読んだ場合、聖書の受けとめ方が人によって異なることは想定できる。生きている状況が違えば、受けとめ方がちがっても当たり前です。そこでそれぞれの人が自分の受けとめを語れば聖書の教えの豊かさを知ることができる。さらに自分が聖書から受けとめた内容に従ってどのように歩んだのかが語られれば、それは信仰の証しとなる。このような信仰の証しが参加者から語られるなら、それは教会を造り上げることにつながる。そこに参加した人を造り上げることにつながる。
  • パウロは預言することを熱心に求めなさいと語った。これを言い換えて、聖霊の導きを受けて熱心に聖書を読み、聖書の言葉によって歩みなさい、といってよいのではないか。そもそもパウロの時代、人々は聖書を持っていなかった。神さまは聖霊の賜物によって預言を語らせたと考えることができる。私たちには聖書がある。だから聖霊に導かれて聖書を読み、それを分かち合うことが大切となる。
  • そのような分かち合いは、信仰者の信仰を造り上げるし、未信者がいれば、自分の非を悟らされ、罪を悔い、神さまを信じるようになるのではないか。このような分かち合いが今、求められている。しかしキリスト者も忙しい生活していて聖書に親しむ時間が少ない。このような状況では伝道できるはずがない。そしで伝道が振るわないのが私たちの現実である。

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方か
  • <御父>無秩序の神ではなく、平和の神である。
☆神が私たちに求める生き方
  • <勧め>預言することを熱心に求める。
  • <教え>信仰者を造り上げることが教会に集会で大切である。
  • <教え>皆が共に学び、皆が共に励まされる集会を目指す。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を思いめぐらすことができ感謝です。今日読んだ箇所は大いなる示唆を私たちに与えてくれます。私たちの信仰生活を刷新させる道筋が書かれています。教会の集会は、参加者が共に学び、共に励まされる集会であることを教えられます。
  • 私たちの教会では異言、預言が語られることはありませんが、それは本質的なことではないと思います。私たちには聖書が与えられていますから、聖霊の導かれて聖書を読み、思いめぐらし、それを分かち合うことが大切と考えます。正直に分かち合うためには、愛が必要ですし、努力が必要であると思いますが、やりがいのある努力だと思います。私が奉仕した最後の教会では、このような努力をし、参加者が生き生きと語り合っていました。
  • 今、私は牧師の働きから引退しているので、自分に何ができるのかと思います。今自分が出席している教会の祈祷会で語る努力をしていますが、今はコロナ禍で分かち合いが困難な状態です。
  • 聖書から教えられた集会の持ち方として私たちが目指す集会のあり方をブログを通して紹介できるのではないかと思いますので、これは取り組みます。同時に伝道の困難なこの国の伝道を考える時、神さまの大いなる介入を期待するものです。これは祈りの課題ですね。祈り続けていきます。
☆与えら得た導き
  • 聖書が教える集会というテーマでの黙想をする。