マタイ福音書 16章24~28節

 2020年6月11日

(内容)

  • イエスは自分の死と復活について弟子たちに語る。その後、自分の十字架を背負って自分について来るように、そして自分の命を救おうとする者はそれを失うが、イエスのために自分の命を失う者はそれを得ると語る。

(黙想)

  • イエスはエルサレムで苦しみを受け殺され、3日目に復活することを弟子たちに告げられた。殺されることを自覚している。勿論、それは人類の救いのための死であることは知っている。イエスは自分の死の意味を知っている。そして弟子たちに自分の命を捨て十字架を背負ってイエスに従うように語る。そしてイエスのために命を捨てる者は命を得ると語る。
  • ここにはいくつかのテーマがある。
    ①なぜイエスの弟子は、自分の十字架を負ってイエスに従うのか。
    ②自分の命を救うための二つの生き方がある。自分の命を救うために生きるのか、イエスのために命を失う生き方をするのか。どちらを選択するか
    ③いつ選択の結果が明らかになるのか。
    ④これらの前提として、イエスはなぜ苦しみ殺され、復活するのか。
  • 今日の聖書箇所はマタイ福音書である。マタイ福音書では、イエスは十字架の上で「わが神わが神、なぜ私をお見捨てになるのですか」と叫んでいる。イエスの死は、神に見捨てられての死、神の怒りを受けての死である。罪を犯した者の身代わりに神の怒りを受けての死である。私たちは自分の罪からの救いをイエスから得ている。私たちはイエスの十字架の贖いの死により救いを得ているものである。このことを踏まえて考えなければならない。
  • 私たちの前には二つの生き方がある。一つは自分の命を救うための生きかた。これは信仰を持たない世の人の行き方である。この世において、可能な限り自分の思い通りに生きて、幸福を追求する行き方である。感謝して納得して死を迎えることはできる。
  • 今一つの生き方はイエスのために自分の命を失う生き方。これは言い換えるとイエスのために生きること。イエスのため、それが目的。そこにはイエスのために自分の命を失う可能性が伴っている。イエスのために生きるとは、自分の十字架を背負うこと。
  • 二つの生き方の結果がはっきりするのはイエスの再臨の時である。人はいかに生きたか、神に裁かれる。この裁きに直面するなら、自分の命のために生きた人生は意味がなくなる。イエスのために生きるなら、たとい迫害を受けて死んだとしても、再臨後の裁きでは、救いを受けることができる。
  • イエスの再臨は本当にあるのか。キリスト者はこれを信じる。再臨を信じる信仰が信仰者の歩みを導く力となっているのかどうか。頭では再臨を信じていても、知識に終わっていないかとの問いが残る。
  • もし本気で信じていたのなら、信仰を持たない家族や親しい人に対する伝道が盛んになってもよいと思う。イエスの再臨は信仰者でも半信半疑であり、伝道を推し進める力にはなっていないのではないか。
  • イエスの再臨を本当に信じる時、人々に悔い改めを勧める言葉が与えられると思う。その言葉を僕はまだ得ていない。その意味で本当に信じることが課題である。そこで思うのが旧約の預言者である。預言者たちは、神の裁きの到来を語った。不信仰な王たちは信じなかった。しかし神の裁きは実現した。王たちは、信じればよかったと悔やんだかも知れない。王たちは信じなかったことについて結果を身に招いた。イエスの再臨を語る聖書は、ある意味で預言を語っている。私たちは預言者の言葉を聞くイスラエルの人たちと同じである。これから神が起こすと言われる出来事を信じるか否か。
  • 大事なことは、イエスが語っているということであり、神が預言者を通して語っているということである。これをいかに信じるのか、いかにしたら信じられるのか。聖霊の導きを求めればいいと祈りもしてきた。でもどうもうまく行かない。頭で信じることの限界を感じている。信仰は聞くことからと聖書にある。私たちの信仰は勿論聖書の言葉を聞くことから与えられる。しかし賛美の歌の歌詞もまた信仰から来る言葉であり、賛美をすることを通して、信仰を深められるということもあるのではないかと思う。
  • 僕が好きな讃美歌のフレーズはこうだ。(讃美歌280番)

On Christ, the solid Rock, I stand;
All other ground is sinking sand,
All other ground is sinking sand.

キリスト、つまり堅い岩の上にわたしは立つ、
これ以外の土台は、沈み行く砂に過ぎない。
これ以外の土台は、沈み行く砂に過ぎない。

  • これは僕の信仰告白の言葉でもある。讃美歌を信仰告白として歌っていくことは信仰を深める可能性として追求したいと思う。
  • 讃美歌280では、「わがきみ、イエスこそ すくいの岩なれ すくいの岩なれ」

(聖書に聞く)

☆神はいかなる方
  • <御子>御子は再臨される方。
☆神が私たちに求める生き方
  • <教え>イエスが再臨される時、人の人生は裁かれる。
  • <勧め>自分の魂を真に救う生き方は何か。それを教えられたなら真っ直ぐに進もう。そして再臨の日の喜びを希望としよう。
  • <勧め>信仰告白として讃美歌を歌おう。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、あなたは理性を賜物として与えてくださいました。感謝します。理性を用いて聖書の理解に努めてきました。それは喜ばしい営みです。しかし理性で納得するだけでは信仰に歩み出せないことを思います。信仰とは神の言葉を信じることです。昔預言者が神の裁きを語った時、信じる人は少なかったです。将来にかかわることは信じることはむずかしいです。信じる、それはあなた自身を信じることから始まります。あなたを信じてこそ、あなたの言葉を信じることができます。
  • 私は今、自分の信仰を深める試みとして、讃美歌を信仰告白の言葉として歌い、自分の信仰をたしかにしたいと考えました。特に終末の事柄を信じることは簡単ではありません。そして終末のことを真に信じる時に与えられる言葉があり、その言葉をもって福音を伝えたいとの思い、願いがあります。神さま、この願いを聞き届けてください。
  • しばらく、on Christ the solid rock I stand を賛美したいと思います。
☆与えられた導き
  • on Christ the solid rock I stand を信仰告白の言葉として賛美する。