マタイ福音書 7章1~2節 人を裁いてはいけない

2021年1月23日

(内容)

  • 人を裁くなと教えられる。それは裁かれないためとある。

(黙想)

  • この教えは「裁く」ことは何でもしてはいけないと教えているのではない。イエスは「正しく裁く」ことも教えている。

ヨハネ 7:24
うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。

  • ここではうわべで裁くことやめよと教え、正しい裁きをしなさいと教えている。

ヨハネ 8:15
あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない

  • ここでは肉に従って裁くことを暗に否定している。
  • 人間が人を裁く時、しばしば間違った仕方で裁くことがわかる。間違った仕方での裁きをしてはいけないとイエスは教えている。間違った仕方の裁きとは何か。
  • それは人を裁き、自分はよい存在であると暗に誇ることである。自分を誇りたいために人を裁くのである。あるいは自分はこれでいいのだと自分を受け入れるために人を裁く。相手を非難して、やっつけてひそかに喜ぶのである。さらに常習的に人を裁いていると人の欠点をあら探しするようになる。
  • 人を裁けば、その人との間によい関係を築くことはできなくなる。他者との関係を壊す。教会員が互いに裁き合うような教会は、よい教会ではない。裁くことは教会を破壊することにつながる。
  • 人を裁くなと教えられたキリスト者はおそらくだれもが自分に裁く心のあることを知るだろう。自分の罪を指摘される。気持ちのいい教えではない。
  • 間違った形での裁きをしてはいけない理由として自分が他者を裁いたのとおなじ仕方で自分がさばかれるからと理由が示される。使徒パウロも同じことを語っている。

ローマ 2:1
だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。

  • 人を間違った仕方で裁くこと、人の欠点をあげつらい、人を非難し、自分を正しい者とすることは罪である。私たちはいつの日か神の前で裁かれることになる。裁く者は終末の時、神の裁きあうことを思うことも大切だ。人を裁く罪を軽んじてはいけない。神の裁きを軽んじれば、人は自分の罪を真剣には考えなくなる。
  • 裁かないためにどうしたらいいのか。人を裁き、自分は正しい者であると自分を誇ることの裏には、現実の自分を肯定することのできない心がある。だから他者をけなし、自分はましな人間であると考える。だから、現実の自分を肯定的に受けとめることができるなら、他者を裁く必要はなくなる。
  • キリストの福音は、私たちの罪を赦し、私たちを神の子とする福音である。ここに私たちが自分を肯定的に受け入れることのできる理由がある。
  • おそらく世の人、キリスト者でない人は人を裁き、自分はましな人間であると自分を受け入れている。その習性がキリスト者になった私たちにも残されている。人を裁く心があるかどうかは、私たちが本当に福音を受け入れているかどうかの試金石にもなる。裁く心があるなら、福音をもっと知り自分が神さまに赦され愛され、自分を引け目に思う必要がないことを知りたい。神の子とされているのだから。
  • もう一つ考えたいのは事実と価値判断の違いである。他者にしても自分にしても人には欠点や至らない点がある。これは事実として認識される。このような事実があるから、ダメな人間だというのは価値判断である。ダメな人間だという判断が他者に向けられる時、それは裁きとなる。人は自分を裁くこともある。そして劣等感に陥ったり、自分を卑下したりする。事実を否定することはできない。
  • しかし事実と価値判断は別である。神は私たちが罪を犯す者であるのに、罪を赦し、神の子として受け入れてくださる。罪を犯し本来裁かれてしかるべきなのに、赦し、受け入れ神の子としてくださる。これが神の判断、愛の判断。私たちも他者に対して、愛の判断をすることが求められる。人は人格を持つという点でだれもが尊重されるべき存在である。
  • 他者の欠点を見たら、執り成しをし、その人を愛することが大切となる。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • (警告)人を裁かないこと。
  • (勧め)自分に他者を裁く心があるなら、福音とは何か、学ぶことが大切となる。
  • (教え)キリスト者とは、自分を受け入れることのできる人のことを言う。
  • (勧め)裁く心が湧いたら、その人のために祈る。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、今日も聖書を読み思いめぐらすことができたことを感謝します。人を裁く悪しき習性は私にもありました。他の牧師の説教を聞きながら、批判点を見いだしていました。福音を聞きたいと願いながら聞き、その思いだ満たされないと分かると、問題点を数えていました。やがて裁くのではなく執り成しをすることを聖書から教えられ、裁くことは少なくなりました。裁く心が湧いたら、心を切り換え、執り成しをするようになりました。おかげで裁く思いから解放されたように思い、感謝です。
  • 福音はキリスト者に自己肯定を可能にさせますから、人を裁く理由はなくなります。キリスト者が人を裁くことがあるなら、福音が十分に伝えられていないことになります。その意味では、福音が余すところなく宣べ伝えられることが必要ですね。
  • 今日は裁く心を持つキリスト者たちが福音によって自分を肯定的に受け入れ、人を裁かなくなるように祈ります。祈りの課題として祈り続けることにします。
☆与えられた導き
  • キリスト者が他者を裁くことがなくなるように祈り続ける。