マタイ福音書 7章3~5節 丸太とおがくず

2020年1月25日

(内容)

  • 人の目のおがくずを指摘するよりも、自分の目の中の丸太を取り除くことが先である。自分の欠点を脇に置いておいて、人の欠点を指摘するのは大きな罪である。

(黙想)

  • この教えはキリスト者に向けられたものである。世の人に向けられたものではない。山上の説教はキリスト者に向けられている。
  • おがくずは家を建てるために材木を削った時に出てくるもので、大きさとしては小さい。家を建てるために使う丸太はとても大きい。おがくずとは比べものにならないくらい大きい。人の小さな欠点は見るのに、自分の大きな欠点を見ないのかとイエスは語る。自分の大きな欠点を放置して、人の小さな欠点を指摘するのは偽善者であるとイエスは言う。
  • 私たちはなぜ人の欠点を指摘しようとするのか。言葉に出して言わなくても、心の中で人の欠点を思うのか。相手の徳を建てるための行為なのか。それとも相手をやっつける、あるいは自分をましな人間と思いたいからなのか。
  • もし相手の徳を建てるため、相手のことを思ってのことと言うなら、私たちは偽善者になる。自分の大きな欠点を正さず、人の欠点を指摘するのは、偽善者の行為となる。自分の欠点を正してから人の欠点を指摘するのが順序である。また相手をやっつけたり、自分をましな人間と思いたいなら(自己義認)、そこには愛はない。
  • 他者の欠点はおがくず、自分の欠点は丸太。自分の欠点はそれほど大きいのだろうか。大きい。人を裁くことは、自分に愛がないことを示している。人を裁くことは他者を愛さない行為、隣人を愛さない行為。ひどい罪を犯していることになる。それに気づいていないのは、目の中にある丸太に気づいていないことになる。人を愛さず、自分のことしか考えない、他人を裁いて自分をましな人間だと思いたがる、愛のない罪人である。みじめな人間である。人を裁きたがる人は、他の人から、自分がそのような人間だと見抜かれている。そのことを自分は知らない。これもまたみじめである。
  • キリスト者といえども人を裁く人は、自分の愛のなさに気づいていない。気づいていない、ここに惨めさがある。
  • 愛は忍耐強い。愛は情け深い。愛は自慢せず、高ぶらない。この愛の教えを知る時、人を批判することの罪深さを知らされる。
  • 私たちの前に道が二つに分かれている。自分の存在を肯定的に受けとめるために、他者を批判し、自分はましな人間であると考える道。もう一つは、自分の罪深さを認め、自分にはよい点は何もないと認める道。この場合、自分にはよい点は何もないが、この自分を神が愛してくださっている、この自分の存在を神が喜んでくださるから、と考え、自分を肯定する。イエス・キリストの十字架に示された神の愛を信じる道。イエス・キリストを信じ私たちは神との間に平和を得ている(ローマ5:1)。
  • 十字架に示された神の愛を本当に信じているかどうかは、他者に対する態度が試金石となる。他者を批判する人は、神の愛を受けとめることができていない。神の愛を事実上知らない。そして自分の欠点に気づいていない。
  • 「丸太を取り除く」とはどういうことだろうか。自分に大きな欠点があることを知ること。大きな欠点とは、人を裁くことである。人を裁く人は人を愛さない。隣人の教えに背く。大きな罪を犯している。裁くことは小さな行為に見えるかも知れない。しかし神に対する強硬な反逆でもある。自分にこの罪があることをはっきりと知ること。そして神の憐れみによって、キリストのゆえに自分が赦されていることを知ること。こうなると、簡単には人を裁かなくなるし、人の欠点に寄り添う気持ちになる。丸太を取り除けば「はっきり見える」ようになる。
  • 何が見えるようになるのか。ひとはみな罪を犯すこと、そして罪に打ち勝つことができないこと、人が罪の支配下にありみじめな存在であることが分かるようになる。そして自分自身みじめな存在であること、しかし、神の赦しによって生かされていることが分かるようになる。他の人も自分と同じように罪のもとに置かれているみじめな存在であると分かる。こうなれば人を裁くことがなくなる。
  • しかし兄弟の目からおがくずを取り除くのは、簡単なことではない。二つの方法がある。一つはそのおがくずを指摘することである。しかし人は自分の欠点を指摘されて素直にあらためようとはしない。基本的に反感を覚える。この方法は失敗する。今ひとつは、愛をもって接することである。愛は忍耐強い、愛は情け深い、愛は自慢しない、愛は高ぶらない。やがて相手は自分の欠点に気づくのではないか。それを忍耐強く待つ。
  • イエスの教えは、私たちのうちに潜む罪を指摘する。私たちは偽善者であり、愛がない。そんな自分を私たちはましな人間と考える。そしてそんな自分を誇ろうとする。罪深い私たちであるが、この私たちを愛してくださる天の父がおられることを忘れてはいけない。神の愛で心を満たされよう。

(聖書に聞く)

☆神が私たちに求める生き方
  • (教え)私たちの目の中にある丸太を認めること。人を裁く罪が自分にあることを認める。
  • (勧め)キリストの十字架に現された神の愛を思うこと。

(神の導き)

☆祈り
  • 天の父なる神さま、人を裁く罪が自分にあることを教えてくださり感謝します。人を裁く思いが生じたら、その人のために執り成しの祈りをするようにし、裁く思いを拒むようにしてきました。人を裁くことは少なくなってきたと思います。人を裁く心のある自分が罪深いことも知っています。しかしイエス・キリストのゆえに、あなたは私の罪を赦し、私をあなたの子として生かしてくださいます。感謝します。神の子としてふさわしく歩みます。導いてください。どうぞ私に清い心を与えてください。また人の欠点ではなく、人の長所を見つける者として下さい。
☆与えられた導き
  • 人の長所を見いだす者となるように導きを祈り続ける。